在位30年(おことば)

 2019年2月24日に今上天皇の在位30年記念式典が行われた。本当にめでたい。その際の陛下のおことばに関し感じたことを述べる。全文は宮内庁のホームページに出ている。

(30年記念式典おことば)

http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detail/42#152

(英文) http://www.kunaicho.go.jp/page/okotoba/detailEn/42#152

  • 皇后が天皇の原稿読み間違いを正した。2-30年前までならバッシングされたであろう。何故なら、天皇のミスを公の前で明らかにしてはいけない、天皇の言動は常に完璧であるべき(綸言汗のごとし)。仮に間違いがあれば、正しい文書を後で配布しておけばいい。
     そのことは多分皇后も判っていたであろう。しかし、このおことばは、天皇が自分でいろいろ考え、長時間かけて作られた。それを知っている皇后は、それが天皇の口から間違って発語されたとすれば、天皇自身が耐えられなくなると思われたのだろう。それであえて訂正されたに違いない。
     このことがバッシングされなかったことで、日本人の皇室観も進んだと思う。
  • 地球温暖化という言葉を使わずに、「世界は気候変動の周期に入り」と言われた。地球温暖化というと、「人間活動による炭酸ガスの増加の影響」を含意している。これに対し、陛下は科学的でないという疑念を持たれているのではないかと推測した。
  • 文体に整理されていないところがあると感じた。想像するに、陛下の原案に異論ないし婉曲化を求める声があり、それに応えて修文していく間に文体が少しおかしくなったのではと思う。それだけ真剣に書かれたのだろう。以下、文体に違和感を感じた例。
  • 「私がこれまで 果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことができるこの国の人々の存在・・・のおかげでした」 
     構文として理解しにくいが、読み返していて気がついた。そうか、「持つことができる」の主語は陛下ご自身で、英語で言うと、複雑な関係詞構文だ。
     宮内庁の英語版を見ると、該当部分は、
    I have been able to fulfill my duties thanks to the people of Japan, whose symbol of unity I take pride and joy in being,
     私の英語力の拙さもあって、依然として判りにくい。次のようにすると、私にも理解できやすい*1。正しいかどうか自信はないが。
    I have been able to fulfill my duties thanks to the people of Japan, having pride and joy in being the symbol of their unity ,
  • (災害に関し)「少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々」 (「多大の関心」でどうか)
  • 「島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきたわが国」 (独自であることに誇りを持っていらっしゃるのか。「比較的恵まれた形」も屈折した表現。)
  • グローバル化する世界の中で、さらに外に向って開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくこと」 (「自らの立場の確立」とは具体的にはどういうことか。今は誰も判らないことをあえておっしゃてるとの印象)
  • 「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、・・・次の時代、さらに次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けて行ってくれることを願う」 (「象徴」に関しこれほど自分の主張をはっきり述べられるとはびっくり。次の世代への宿題も明示された。)

 余談だが、書名に全く同感して、次の本を衝動買いしたので、少し感想を紹介する。

〇 矢部万紀子「美智子さまという奇跡」 (幻冬舎新書、2019年1月29日発行)

 書名はいいが、内容に深みは感じられなかった。また著者は、朝日新聞で週刊誌の編集などをやったというのに、僭越ながら、文体が少し稚拙と思う。面白くもない脱線が多い(具体例は略)。

 雅子妃、紀子妃などにも触れている。秋篠宮家の眞子さまも登場する。現在の皇室は問題山積だ。各皇族の多様性を認めていかないと、皇室の明日はないという。もっともと思うが実現不可能ではないか。認める多様性の例は、意義が不明な皇室祭祀への強制的参加の免除、金銭的スキャンダルを抱えた家族との結婚だ。その他今後、精神疾患を抱える皇族が出る可能性があろう。

*1:symbol of unityも修正ポイントの1つ

ブログシステムの変更

 今までの私のブログ「耳不順(みみふじゅん)ブログ→踰矩(のりこえ)ブログ」は、ブログ・サービスとして、「(株)はてな」が運営するはてなダイアリーというシステムを使っていた*1。しかし、同サービスは2018年夏から2019年春にかけて中止となり、同社の運営する別サービスはてなブログへの移行が用意された。

 部外者には意味不明のところがあろうが、私にとっても、このサービスシステムの変更は苦労した。完璧とは言えないまでも、必要と考える機能の維持、更に可能ならばアップに最善を期したいと思ったが、よく判らないまま、この2/28には「はてなダイアリー」の全機能が停止されるとのメールが来た(2019/1/27付け「はてなブログへの移行に関するお知らせ」)。それで観念して、不十分なままながら移行することとした。ちなみに、この予定はかねて予告され、対応作業も説明されていたが、勉強不十分なままさぼっていた。

はてなダイアリー終了のお知らせ」
http://d.hatena.ne.jp/hatenadiary/20180830/blog_unify

 

 以下、1)移行した後の読者の注意点、2)過去の私のブログの経緯を説明する。

 

1) 移行した後のこのブログの読者への注意点

a) はてなダイアリーの記事

 「はてなダイアリー」の記事は全て「はてなブログ」に移行されている。かつての「はてなダイアリー」のURLにアクセスすると、「はてなブログ」の該当ページに自動的に移行する。記事の中身の移行については、図などは無事移行しているようだ。しかし、下付き/上付き文字は、制御記号がそのまま残っていて見苦しい。そのうち順次修正していきたいとは思っている。

 別URLへのリンクについては、URLがそのまま記載してある場合にはいいが、「はてなダイアリー」のページについては、自信が無い。はてなのページ表記は年月日が記載されているから、それに基づき、自分で探すよりない。その他、表についてもはてな特有の記法で製表されているが、それがちゃんと表示できるかは未確認。

 また、文書ファイルが添付してある場合、それがちゃんとダウンロードできるかも未確認。

b) 有料オプション

 「はてなブログ」には有料オプションとして「はてなブログPro」がある。種々の機能が利用でき、かつ余計な広告が入らないから読者は読みやすい。実は「はてなダイアリー」にも「はてなダイアリープラス」という、月180円(だった?)の有料オプションがあり、私も長く利用してきた。ところが、「はてなブログPro」は月600-700円。最近、ブログのネタ切れ状態でもある私には禁止的な高水準なので、このオプションは断念。従って記事には広告などが入る。読者には迷惑だろうが、ご理解を。その他にも便利な機能が使えないかも知れない。

c) ブログの名称

 まだ新システムに慣れないこと、個人的ながらブログに全力投球する意欲が薄れていることから、特徴のない名称「oginosブログ」を使うことに。そのうちまた変えるかも知れない。

2) 過去のブログの経緯

〇 耳不順(みふじゅん)ブログ(2010‐15年)から踰矩(のりこえ)ブログ(2016‐18年)

 本ブログのそもそもは、諸事に関する私の雑感を2006年頃から非公開ブログで書き溜めていたものを、「耳不順ブログ」の名で2010年に公開したものだ。

 孔子論語によれば、40歳の不惑、50歳の知命(天命を知る)に次いで、60歳は「耳順(みみしたがう。じじゅん)」、70歳は「心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えず(七十而從心所欲、不踰矩)」と言う。60歳になって、それまでと違い、人の話を素直に聞けるようになった、70歳になると、心のままに行動しても、社会的、倫理的規範を外れることは無くなったとかの意味のようだ。

 私は、孔子と違い、若い時からサラリーマンとしてずっと人の言うことを従順に聞き、社会の規範やマナーに外れないように生きてきた。もう十分だ。それで、2006年に60歳になった時、これからは逆に、「耳不順(みみしたがわず)」で行きたいと考えた。

 2016年に満70歳となったので、「耳不順」では60代と誤解を与えると思い、再度論語をもじって、「矩(のり)を踰(こ)えず」ではなく、「矩(のり)を踰(こ)える」をタイトルにした。規範を外れ、心の欲する所に従った生き方に憧れた次第(夢想に終ったが)。

(本ブログの方針)

 ブログの内容については、2010年10月3日(id:oginos:20101003)の記事で説明している。「他人が読んで面白いと思ってくれる可能性のあるものを目指す」ことだ。そのポイントとして3つ。

a) 私を知らない「他人」には関心が無いであろう自分の身の回りのことは、原則として書かない。

b) 「面白い」とは、知的に面白いとの意であるが、本当は私が面白いことであり、視点は偏っている。学術的水準の高いことは書けないが、少しでもinformativeと感じてもらえることを提供できるよう努めたい。

c) 「可能性のある」というのは、多くの人ではなく、何人かからでも評価してもらえる可能性があればいいという意味である。

その後、a)の身辺雑事は書かないということに関しては、近年ネタ切れ傾向なので、少し緩めることとした(2015年8月31日の記事参照 id:oginos:20150831)。

 タイトルの「耳不順」、「踰矩」に従い、偏った視点でと思ってきたが、そのことより、長い、くどい、話題が固いと評判が悪い。

 本ブログにコメントが寄せられても、有難いことだが、かねての方針通り、原則として耳を傾けない(順わず)こととする。マナー違反にご容赦のほどを。(2016年1月記)

 プロフィールの似顔絵の経緯は、2011年12月11日のブログを参照。

*1:システムの名称がダイアリーでも個別の日記に「ブログ」を使って問題ない。少しややこしいが。

購読新聞の変更(東京新聞へ)

 また、新聞を替えた。今度は東京新聞日経→朝日→毎日→東京新聞の順。過去2回の変更の経緯はブログで紹介した。長く購読していた日経から、単に「気分を替えたい」というだけの理由で、昨2017年2月に朝日に替えた。それから半年ほどして毎日に替えた。次は過去のブログ。以下、今回の経緯等の雑談。

  id:oginos:20170216 「新聞の変更」 id:oginos:20180320

(購読料)

  毎日新聞の次に替えるのは普通なら読売新聞だが、半年余りで替えるのは毎日新聞の販売店に悪いかと思って、東京新聞にした。東京新聞の購読料は、次のとおり圧倒的に安い。退職者(私)の家計が苦しくなったからだろうと善意に推測してくれるだろうと思ったからだ。

  購読料について調べると、東京地区で定期購読できる全国紙は6紙。その購読料月額(朝夕刊込み、税込み)は、朝日、読売毎日新聞が4,037円、日経が4,900円、東京新聞が3,343円だ。産経新聞は3,034円だが夕刊が無い(東京新聞の夕刊無しは2,623円で最安値)

http://luckystyle.jp/?page_id=56  

(電子版)

  新聞の電子版は、毎日のニュース・メール、検索等のサービスがあって便利だ。サービス内容、料金(無料も含め)等は新聞によって相当異なる。

https://www.newspaper-navi.com/entry/denshiban-hikaku  

  日経購読時は、プラス1,000円/月で日経の電子版を申し込んでいた。購読を辞めてからは無料会員に登録した(現在も)。ニュースメールが毎日来る。無料会員は月に10記事まで全文が読める。日経新聞だけでなく、日経ビジネスオンラインや健康関係ニュース(他にも多くの分野がある)も読めて便利だ。以前の弊ブログでも書いたが、電子版は日経が量、質ともに最高だと思う。

  次の朝日新聞購読時は、プラス1,000円/月で同紙の電子版がフルに(各種サービスもフル)読めた。購読しない場合は、フルに読めるデジタル・コース(3,800円/月)と1月に900記事だけ読めるシンブル・コース(980円/月)(スクラップ機能が無いなど制約が多い)がある。購読を辞めた後は登録無料会員となった。ニュースメールに加え、1日に1記事だけ全文が読める(読める記事には制約がある)。

  毎日新聞購読時には、購読者には電子版が無料でサービスされた。毎日(これは新聞名ではない。副詞)、ニュースメールが来て、記事は全部フルに読める。現在購読を辞めてから半月ほど経過しているが、まだフルに読める。そのうち駄目になるだろうと覚悟している(購読者向け電子版の申し込みは販売店からで、私には責任が無い筈)。

  さて、新しい東京新聞にも電子版はある。ただ3,450円/月で、購読者向けのサービス(無料ないし大幅割引)は無い。これは高すぎるのでパス。参考までに、他の読売新聞の電子版は、購読者だけが対象だが、紙プラス150円/月で圧倒的に安い。

  それで、現在は、東京新聞を紙で購読、朝日新聞電子版のシンプルコース(980円/月で月に900記事)、日経電子版の無料登録会員(月に10記事)、毎日電子版の購読者用会員だ(何時まで続くか判らない)。ニュースメールが多くて食傷気味だが、読み流している。

(切り替えのタイミング)

  切り替えは、毎日新聞の連載小説に区切りがついたのをきっかけにした。小説は朝夕刊と2つあるが、たまたま1か月以内の間隔で終了するとのアナウンスがあり、遅い方の連載の終了日から切り替えた。毎日の次の小説は、朝刊が宮部みゆき、夕刊が又吉直樹で少し心動かされた。しかし、宮部みゆきは前にもよく読んでいるし、今回は、「三島変調百物語」という江戸時代の怪異小説シリーズの1つで、私としては少し興味の薄いジャンルなので、我慢した。又吉直樹の方は初の連載小説で、題名も「人間」と意欲的で興味深い。しかし、芥川賞受賞作「火花」は、私としては正直それほど面白くなかったし、「人間」というタイトル名も重い。ということで、「気分を替えたい」ことを優先させた。

(最終面)

  最終面がテレビ番組欄でなく、また(全面)広告欄でもないのが日経と同じでいい。テレビ番組表は、一番真ん中の4頁を使っている。抜き取って見てほしいというので、これはこれでいい。最終面は拘りの文化欄だ。

(目次欄)

  目次が1面ではなく3面にあるのが不満だ。正確にいうと、1面に「ニュースピックアップ」という欄があって、数個(最大10個ぐらい)の目玉記事を紹介している。大きさは、紙面換算で横10行、縦6段(半頁)分だ。目次は3面にあり、縦は同じだが、横は8行分(今日の紙面)とやや細い。小説などを真っ先に読みたい人は、3面を開いて目次から探す必要があって不便だ。やはり目次は1面においてほしい。

(ページの段組)

  ほぼ全頁1頁12段。例外は文化欄など変形段組の頁で、12段より少ないように見える場合もある。それにしても毎日新聞の12段組は1-3頁のみ、他は基本的に15段(しかも活字のポイントは12段組と同じで大き目)というのは何なんだろうと思う。なお以前に述べたとおり、日経新聞はかたくなに全頁15段組で、折って読むと、8段目が折れて甚だ読みにくい。

(全頁数)

  東京新聞の全頁数は、価格の安さに相応してか少ない。日経、朝日は40頁が基本(最近の朝日は少なくなっているようだ)だが、東京新聞は基本的に30ページ未満だ(毎日新聞は価格は高いが28頁が多い)。安いから、文句をいう積りはない。頁数が多いからといって読みたい記事が多い訳でもない。ただ、私が不満なのは、全頁数が4の倍数でないことが割に頻繁にあることだ。

  実は私は10年来「新聞クリップ」を愛用している。朝、新聞が来るとこのクリップを真ん真ん中のページに挟んで読み始める。頁をめくっていってもちゃんと折りたためて気持がいい。周りの知合いに寄贈(?)すると大体喜んでくれる。紛失したけどどこで入手できるかと聞いてくる人もいた。家人の友人も喜んでくれて、今までのあの「ぐしゃぐしゃ」感が嫌だったのよねと言っていたらしい。次のウェブページは、使い方が丁寧に図解されていていい。

https://item.rakuten.co.jp/spotshop/shinbun-clip/?scid=af_pc_etc&sc2id=af_113_0_10001868  

  全頁数が4の倍数でないことの問題は、裏表2頁の半分の大きさの紙が残り、クリップに引っかからず、抜けてくることだ。1枚だけだがぐしゃぐしゃとなる。4の倍数でないのは、朝日、毎日などでは1か月に1-2回程度だったが、東京新聞は週に2-3回という感じだ。

(折り込みチラシ広告)

  ぐっと量が減った。ある意味で寂しいが、配られなくなったものを思い起すと、住宅と車関係が殆どだ。料金が安い新聞を購読している家は、住宅や車は買わないと考えているのだろう。しかし、私としては、スーパーや区の広報が入ってくるので問題はない。

(内容)

  普通の人にとって関心の高い記事の内容の比較については、よく判らない。購読を始めた時は、東京新聞は当局発表のフォローが多く、突っ込みが少ないなどと思ったが、それなりに面白い記事もある。ただ、パズルなど娯楽欄が若干少ないかと思う。

  最近朝日新聞が1週間限定の試し読みを置いていった(昨日で終り)。比較の意味で、両紙を丁寧に読んだが、それほど極端な違いを感じなかった。私の読解力が衰えたのと、世の中への関心が薄らいできたのかも知れない。

 

AI(人工知能)とシンギュラリティ

 AIは人間の知能を超えられるか。AIは、2045年に人間のレベルを超えるシンギュラリティ(特異点)に達し、その後更に無限に発展を続けるとの予測がある。2045年に私は数え年で100歳、到底生きていない。確認できないのが残念だがしょうがない。本稿では、シンギュラリティに関するいろいろな見方から、私が理解できたと思える範囲で、私なりの観点で3つの立場に整理して紹介する。1) AIは神になって人類を救う、2)AIは人類を滅ぼす、3)(AIが人間の知性を越えることは不可能だから)シンギュラリティは実現しない。また参考として、4)神学的視点と、5)(シンギュラリティにはいかないが)最近のAIのトピックを紹介する。5)の中で小見出しとして、(ブラックボックス問題に関する私の感想)、(人間の職業はどうなるか)、(日本の問題点)についても触れる。
 先ず前置きとして、0)AIの進歩とシンギュラリティについて、から。なお、だらだら書いて9,000字と長くなった。ご容赦を。*1
0) AIの進歩とシンギュラリティ
 AI(Artificial Intelligence人工知能)の進歩は著しい。弊ブログでも、「将棋ブームとAI」 id:oginos:20170721、「自動運転の未来」 id:oginos:20151130などで採り上げている。最近のAIの事例は、5)で紹介する。
 「シンギュラリティ仮説」とは、米国の未来学者レイ・カーツワイル(Raymond Kurzweil)が2005年に著書“The Singularity Is Near: When Humans Transcend Biology”*2で予測したことだ。AIの能力は、自分より優れたAIを再生産することにより指数関数的に発達して、将来は人間の知能を越える、そのシンギュラリティ(特異点)を越えると、そのレベルの差は更に拡大し、AIは人間より無限に賢くなる。越える年も2045年と具体的に予測されている。最近は、この2045年が2029年に早まるとの説も出している。

出所:日刊工業新聞電子版 2017/2/11

 AIの進歩に加え、ロボットについても、ナノテクノロジーの発展に応じて小型化が進み、将来は赤血球程度の大きさでかつ自己複製化の機能を備えた「ナノボット」になる。ナノボットは、人の体内で細胞を修復し、脳と連携できるようになる。
 過去の半導体技術開発で見られた、1年半で能力が2倍になるという「ムーアの法則」は、AIでも実現していて将来も続くと考えられる。人間の脳の神経細胞は10の11乗個(1000億個)あると言われる。ひとつの脳神経細胞からシナプス(神経細胞神経細胞の接合部)が1万本(10の4乗)出ているとして、合計10の15乗本。それらが10ヘルツ、つまり、1秒に10回スイッチングすれば、1秒間に10の16乗回演算している。それが人間の脳の性能とみなせる(10^1^6 cps、秒当り演算回数)。2012年の日本のスーパーコンピューター「京」は10^1^6FLOPS*3で、機械的な処理能力では1人の人間の脳の水準に達している。今後のスーパーコンピューターは小型化が進み、現在のパソコン並みの大きさと価格になると予想され、更にソフトウエアの発展も見込まれ、シンギュラリティに近づく。全人類の人口を100億人(10^1^0)とすれば、人類全体の脳処理能力の合計は10^2^6cpsとなる。このように将来のコンピューターは人類全体の能力をも越えていくと予想される(カーツワイル)。
 なお、カーツワイルは、昨2017年のインタビューで「2029年にコンピューターは人間レベルの知性を獲得する」という趣旨の発言をしているとのことだ。https://boxil.jp/beyond/a4632/ 
 
1) AIは神になって人類を救う
 シンギュラリティ仮説には賛成論、反対論が多い。欧米は賛成論が多いが、日本は反対論が多いと言われる。その理由を説明しようとする議論は後述する。日本に少ない賛成論の1つとして、シンギュラリティが人類を救うとのやや極端な議論から紹介する。本は、松本徹三 「AIが神になる日−シンギュラリティが人類を救う」 (SBクリエイティブ、2017年7月初版)
 著者は、現代社会の最大の問題は、民主主義と資本主義が、矛盾を抱えた欠陥システム(ポピュリズム、格差等)であって、人類が今後も安住できる制度ではないことにあるとする。民主主義の最大の難点であるポピュリズムを克服するためには、シンギュラリティに達したAIが神となり、それに政治を委ねることしかない。AIは、普通の人間の持つ弱点(偏見がある、無私でない、等)からフリーであり、「良き羊飼い」になり得る。もちろん公平で能力の優れた指導者が出て善政により安定することはあり得るが、独裁に陥る危険が常にあることは歴史を見ても明らかだ。シンギュラリティのAIによる「良き羊飼い」が実現すれば、人類はこれに指導された「迷える子羊」として、この世界で末永く平和に生きる。これが人類にとって最善のシナリオとする。
 AIの暴走を防ぐため、AIを人間の支配下に置く必要を説く人が多いが、著者は反対する。シンギュラリティのAIを人間のコントロール下に置くと悪人に悪用される恐れがあるからだ。AIより人間の方がよほど素性が疑わしい。科学技術の発展の一方で人間が自分自身の行動を管理する能力は殆ど進歩していない。偶発的に自分自身を滅ぼす危険が顕在化している。従って、早い段階からAIを人間の手の届かないところに隔離し、AIに自分自身の将来を開拓させることが必要。この場合、AIには正しい価値観を持つ変更不能の回路を植え込んでおき、悪魔にしてはいけない。
(私の感想) 確かに、民主主義下のポピュリズムについては、日本の現状を見ても、米国、欧州を見ても救いようがないかとの気持になる。宗教に依拠する秩序が期待できない世界で、元来自由な各個人がどうやって平和を維持していけるのか。シンギュラリティのAIに期待する気持は理解できる気がする。なお、神学的な視点との関係は、4)で。

2) AIは人類を滅ぼす
 欧米では多くの有名人がAIの将来に警鐘を鳴らしている。

  • スチーブン・ホーキング(宇宙物理学者)の警鐘

「完全な人工知能を開発できたら、それは人類の終焉を意味するかも知れない」 (2004年12月のBBCインタビュー)

人工知能についてはかなり慎重にならないといけないと思います。おそらく人類の一番大きな脅威となりうるものです。ですので、本当に慎重さが求められます。規制や監視が国レベル、あるいは国際レベルで必要だと思いますね。私たちが何か分別に欠けるようなことをしないためにね。人工知能は悪魔を呼び出すようなものですから。」 (MIT航空宇宙学科100周年記念イベントでの質問に答えて(2014年10月) ) 

「わたしも超知能に関して懸念を抱いている側の1人だ。当面、機械は今後もわれわれのために多くのことをしてくれるはずで、超知的にはならない。うまく管理すれば、これ自体はプラスに評価できる。だが、こうした状況から数十年後には、知能が強力になり、懸念をもたらす」 (ソーシャルニュースサイトRedditの「AskMeAnything」2015/1/28)

3) シンギュラリティは実現しない
 前述したように、日本ではシンギュラリティ反対派が多い。特にAI科学者に多い。AIは、知能を模擬できるが、人間の意識や感情をシミュレーションすることはできないとの立場が基本だ。幾つか紹介する。
 著名な情報科学者の西垣通は、次の著書の中で、生物と機械との間に明確な境界線が引けるからシンギュラリティは生じないとする。
西垣通ビッグデータ人工知能−可能性と罠を見極める」(中公新書、2016/7初版)

  • コンピューターは、人間の設計したプログラムで動いているに過ぎず、如何にAI、深層学習などの手法が進んでも、人工知能が、意識を持ち、自己という概念を認識し、やがて進化し、人間の知能を超えるということはない。
  • 機械は再現性に基づく静的な存在、生物は、絶えず自分を変えながら生きる動的な存在というように、基本的に異なる。例えば、機械学習では、プログラムが自動的に変更されるが、その変更の仕方はあらかじめ設計者により厳密に決っている。
  • 生物の脳と心は異なり、人工知能で脳の機能をまねても、心はまねできない。生物の脳は情を司る心がベースになっている。
  • 生物は自律システムないしオートポイエーシス(autopoiesis、自己創出)、機械は他律システムないしアロポイエーシス(allopoiesis、異物創出?) *4で、相容れない。

 AI研究者の松尾豊も次の著書で、ほぼ同様な論理で、シンギュラリティに批判的だ。
〇 松尾豊「人工知能は人間を超えるか−ディープラーニングの先にあるもの」(角川EPUB選書、2015年3月初版)

  • 「人間=知能+生命」で、生命を人工的に作り出せないから無理。AIが勝手に意識を持ち出すと考えるのは滑稽。
  • ロボットで実現すると考えると、鉄などの材料の補給をどうするか。人間から買うのか。ソフトがソフトを作成するとするのも、プログラムミスを考えると現実からは想像できない。

 同じくAI研究者の中島秀之も否定的で、次の視点を付け加えている。
〇 中島秀之、ドミニク・チェン「人工知能革命の真実−シンギュラリティの世界」(ワック(株)、2018年1月)

  • 第1の問題点は、脳神経の構造は写し取れたとしても、そのある時点の活動状態(脳神経の興奮状態)を読み取ることは不可能。血流やホルモン濃度も関係し、全てを同時に計測する方法は今のところない。
  • 第2の問題点は、身体性。目や耳の感覚器官、最近は内臓の状態も脳に影響していると言われる。脳だけをシミュレートしてもダメ。

 若きAI研究者で、ベンチャー経営者(IQBETA、https://iqbeta.com/)の松田雄馬は、次の書で、生命、身体を持てないAIでは、シンギュラリティは生じないとする。
〇 松田雄馬人工知能はなぜ椅子に座れないのか−情報化社会における知と生命」(新潮選書、2018年8月)

  • 現在開発が進められているAIは全て、人間の知的活動の一部を担う「弱いAI」に過ぎず、精神を宿す「強いAI」とは性質を異にする。
  • 機械が人間の「認識」、「意味」を理解するには「身体」との関係を理解する必要がある。人間にとっての「意味」とは「行為の意味」であり、「行為」を行うには「身体」が不可欠。「身体」にとっての「意味」は、「身体」と「環境(状況)」との関係によって即興的に(その場その場で)作り出される。人間は、「疲れているので座りたい」、「作業をするのでその場所が必要」などという物語、目的を作り出して、「椅子に座る」。身体の無いAIは、従って、書名のとおり、「椅子に座れない」。

(私の感想) 何れももっともな論理で、反論できる根拠はない。しかし、AIが人間の心や意識を持てるようにならなくても、その頭脳の知的能力を進歩させて人間の心を理解し、併せて自己を再生産する能力を付けていくことはあり得ないことなのかと思う。

4) 神学的な視点
 先に紹介した、西垣通ビッグデータ人工知能では、欧米と日本の学者の違いについて、次のように神学的な視点を述べている。

  • シンギュラリティ仮説が優勢な欧米は、ユダヤ=キリスト教一神教の世界である。そこでの伝統的な宇宙秩序は、神を頂点とし、次いで天使、人間、動物、…人工物とランクが下っていく、永遠にして厳格なる位階秩序で、それは超自然的な神が与えたものだ。その後、近代科学という世俗的な体系が生まれ、神という超自然的な存在は後ろに退いたが、その思考のベースにはこういう秩序感がある。
  • 神は人間を創出したが、AIも被造物として創出される(被造物としては神の前で人間と同格)。被造物たるAIロボットが、傲慢な人間に反逆を起こすという暗いストーリーは欧米人にとって説得力を持つ。シンギュラリティ仮説は、一神教文化の世俗化がもたらした虚妄である。
  • 日本の研究者の中で、この一神教に基づくシンギュラリティ仮説を本気で信じている人は殆どいない。しかし、欧米の科学者の中で本気に信じている人が沢山いて多大な研究予算がばらまかれているので、それに対抗(便乗?)するために関連の未来図が、日本でも大きなトピックになっている。

 宗教学者島田裕巳は、世界的な宗教の衰退とAIへの代替の可能性について論じている。
島田裕巳「AIを信じるか、神(アッラー)を信じるか」(祥伝社、2018年6月初版)。

  • キリスト教を中心として、神を信じる人が少なくなっている。フランス、米国では教会のミサに行く人が減少している。権威が無くなる。代りとして、イスラム教(アッラーの神)かAIの役割が高くなる。
  • イスラム教の特徴は、基本的に教会*5や牧師などの権威が存在しないこと。信者が従うべき規範は、コーラン(預言者マホメットに下された神のメッセージ)とハディース(マホメットの言行録)が全てで、これらは7世紀に定められたもので、以降変更されていない。イスラム教徒はすべて平等で国籍、民族の差別は無く、その意味で、現在主流な欧米的なグローバルとは別だが、基本的にグローバルである。
  • AIが発達しているが、問題は、判断はするが理由が説明できないブラックボックスであることだ。これは、イスラム教における生活上の各規範(豚肉の禁止等)にはコーラン等に書いてあるという以外の理由がないことと通じている。神や預言者が定めたことは絶対であるということと、理由を聞かずにAIに従うという考え方とは通底していて、AIによる支配は人類に受け容れられる可能性が大きい。
  • イスラム教徒の人数は、2010年では16億人で、21.7億人のキリスト教徒に次いで多く、今後も増える。特に近年欧州での移民等によるイスラム教徒の伸びは大きく、2016年の欧州30国(EC28国プラス2国)のイスラム教徒は2577万人(人口全体の4.9%)だ。特にフランスは572万人(8.8%)にも達する*6。この中でイスラム教的な考え方(理由を聞かない、など)が広まっている(AIも受け容れられるとの趣旨か)。
  • AIを神として信仰の対象とする宗教団体が、元Googleエンジニアにより米国で設立されたらしい。「Way of the Future」、目的は「人工知能に基づく神の実現を発展・促進すること」。*7

5) 最近のAIのトピック
 各書で紹介されている最近のAIのトピックから若干を紹介する。もちろんシンギュラリティに達しているものではない。主な出所は次の書だ。
日本経済新聞社編「AI2045」(日経プレミアシリーズ、2018年6月第1刷)

  • 直木賞作家朝井リョウはAIとの「共作」を試みている*8。書くべきテーマは自分。あらすじや登場人物はAI。舞台設定が整ったら、著者は文章の執筆に全力。
  • イスラエルでは、軍事関係のAIで、脳をネットにつなぎ、人の脳の記憶や機能をコンピューターにダウンロードする技術の開発を行う企業が現れた、
  • 日本の企業で、潜在退職可能性を判断し、人事配置に役立てている。
  • 電子機器の修理を手掛ける「ア・ファン」社(千葉県習志野市)には、AIBOを直してほしいという依頼が多くなっている。人間がロボットに愛情を抱いていることの表れだ。AIBOの供養をするお寺もある。
  • HISの「変なホテル」が評判だ。長崎で当初の1/5の6人までスタッフ数を削減。2017年3月に千葉にも2号店。会話ができるロボットを置いたところ、(人間同士の)会話に割り込んできてうるさいとのクレームが出た。

 また、NHKNHKスペシャルで、昨年、今年と人工知能のレポートをしている。その中で幾つか紹介する。
〇 NHKスペシャル 「人工知能 天使か悪魔か 2017」 2017年6月25日(日)放送
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/?aid=20170625

  • シンガポールのバス会社では、事故を起こす危険性の高い運転手を人工知能が見つけ出す。
  • アメリカでは、過去の膨大な裁判記録を学んだ人工知能が、受刑者の再犯リスクを予測し、刑期の決定などに関わっている。
  • 日本のある企業でも、退職の予兆がある人を、人工知能が事前に察知するというシステムを導入した。
  • 名古屋のタクシー会社では、客がいる場所を指示する人工知能を導入し、乗車率が大きくアップした。
  • 2018年春、将棋界の最高位・佐藤天彦名人と最強の人工知能が激突する電王戦2番勝負が行われ、佐藤名人は完膚なきまでに叩きのめされた。
  • 将棋界最高の頭脳・羽生善治は、AI将棋を尊重しつつも、判断の根拠がブラックボックスになっていることが困るとしている。
  • AlphaGo(アルファ碁)は、Google DeepMindによって開発された囲碁プログラムである。2017年5月には、柯潔との三番勝負で3局全勝を挙げ、中国囲棋協会からプロの名誉九段を授与された。Google DeepMindは世界トップ棋士の柯潔に勝利したことを機に、AlphaGoを人間との対局から引退させると発表した。

〇 「人工知能 天使か悪魔か 2018 未来がわかる、その時あなたは…」 2018年9月15日(土)(午後9:00-9:50)
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20180915 

  • 今、最も精度を増しているのが、犯罪予測。アメリカ各地の警察では、続々AIを導入、大きく犯罪件数が減少している。ネブラスカ州では、地区別、時間別、種類別に犯罪を予測し、AIの指示に従って警官がパトロールする。殺人等が対前年比で9%減り、盗難事件も48%減少。
  • シカゴ警察では、SNS等を分析し、犯罪に関わる可能性の高い者を抽出して「未来の犯罪者」リストを作成した。人口の15%の40万人が登録されている。リスト対象者を定期的に訪問して警告している。ただ、このシステムでは、加害者になるか被害者になるかは判らない。問題視する識者も多く、訪問を受けた人の中には怯えて、移転を考える人もいる。
  • 衛星画像を読み取るAIの解析能力は、300メートル四方というピンポイントで、向こう48時間の15分ごとの正確な天気の予測を可能にした。鹿児島県姶良(あいら)市では、2018年7月上旬の西日本豪雨の際に、ウェザーニュース社のAIによる気象情報サービスを活用して、きめ細かく避難指示、解除をした。気象庁の予報(鹿児島県を2つの地域にしか区分しない)に比して、地理的、時間的に圧倒的にピンポイントのサービスが提供されたとしている。
  • 米国では、心臓移植の患者を選ぶ際に、10年後生存率の改善度を見て決定している。また、脳のPET写真をAIで解析し、2年以内にアルツハイマー病を発症するかが判定できるようになったとのこと。ただし、現在では治療法がないので臨床適用はしていない。
  • しかし、AIは、予測はするが、その理由は示さないブラックボックスであることが問題である。

(ブラックボックス問題に関する私の感想)
 AIが判断の理由を示さずブラックボックスとなっていることが問題だとの指摘は、上述のNHKスペシャルで繰り返されており、島田裕巳著でも、神とAIとの共通点として指摘されている。確かに、人事評価、犯罪予測などで理由が示されないのは、不利益を被る人に限らず、AIの判断を実行する立場の人にとっても違和感を覚えるだろうと思う。いくらAIは公平、無私、偏りが無いと言われても納得しがたい。
 私は、AIの判断がブラックボックスだという問題は、現時点でAIが未だ成熟していないからであって、今後、人間に説明できる能力を付加することは可能と思う。AI技術で画期的だった「ディープラーニング(深層学習)」は、多層のニューラルネットワークを活用するが、各層で抽出されるパターンの関係が多層、複雑すぎて、現段階では人間に解読できない。ということで、現在はブラックボックスになっているが、今後は人間も納得できるような説明振りを構成、追加していくことは、人間より賢くなるAIにとっては容易なことと推測する。
(人間の職業はどうなるか)
 AIが社会や職場に導入されていく中で、人間の仕事はどうなっていくか。上述の日経新聞編「AI2045」に掲載されている図を紹介する。「AIが得意とする分野」(現在と近未来か)は、図の真ん中の受付、事務員、運転手、作業員などとされているが、更に営業、通訳、添乗員も対象になっていることにはびっくりする。更に今後「AIの進出が加速する分野」は、コミュニケーション能力と高度な専門性が必要とされる右上の方向とされている。具体的には、医師、会計士、政治家、経営者、看護師、介護士などが挙げられている。高度な専門性は必要だがコミュニケーション能力は不要とされている(根拠は不明)、音楽家、写真家、料理人がAI化の方向から幸い(?)外れているが、これらも本当にどうなるか判らない。
 人間はAIと仕事を張り合うのではなく、共存を図るべきとの主張だが、これもどうなるか判らない。


(日本の問題点)
 同書の中で、もう1つ気懸りなのは、今ある業務が自動化される割合を国別に比較した報告だ。ロボットの導入余地は日本が主要国の中で最も大きい(マッキンゼーの試算)と指摘されている*9。日本は金融・保険、官公庁の事務職や製造業で、元来ロボットに適した資料作成などの単純業務の割合が他国より高い。これは、日本の労働者がロボットに対抗してよく頑張っているからと評価するよりも、国際的に見た労働生産性の遅れが今後も拡大すると心配になる。
 また、AI特許は米中で激増、日本は減少しているとの指摘も心配だ。主要10か国に提出されたAI関連特許は、2010年の4,792件に比して2014年は8,205件と7割増。ところが日本は同時期に3%減とのことだ。
 人類の仕事の変化も問題だが、日本の状況も心配になる。

*1:本稿は、私が高校同期の定例同窓会で短いプレゼンをする(10月初旬に予定)ものの補足説明だ。今年の同窓会幹事の趣向はいろいろあるらしいが、その1つが数名を選び、適当な話題でプレゼンをしてもらうことだ。光栄にも迷惑にも、私に依頼があった。条件は3-5分間で終らせること。生来話下手の私には、数分間で理解してもらう自信が無い。ということで、このブログで補足することとした。

*2:邦訳は、「ポスト・ヒューマン誕生−コンピューターが人類の知性を超えるとき」(井上健訳、NHK出版、2007、その邦訳のエッセンス版がある。「シンギュラリティは近い[エッセンス版]−人類が生命を超越するとき」(井上健監訳NHK出版、2016年4月

*3:FLOPSは浮動小数点計算数/秒でcpsに相当

*4:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9D%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%B9

*5:モスクは、信者が礼拝する場所と位置付けられている。

*6:ドイツ、イギリスのイスラム教徒も各6.1%、6.3%。ある予測では、2057年にフランスではイスラム教徒がキリスト教徒を抑えて第1位の宗教になるとのことだ。

*7:よく判らないがウェブでも伝えられている。 https://www.gizmodo.jp/2017/10/way-of-the-future-launch.html 

*8:既に、AIを利用した創作小説が「星新一賞」の1次予選を突破している。

*9:自動化が困難な業務の割合。日本55%、米国46%、欧州47%、中国51%、インド52%

交通違反切符

 昨日、生れて初めて交通違反切符を切られた話。
 私は、最近あまり運転しない。今年になってからこれが3回目だ。ちなみに、過去の2回は、2泊と7泊のドライブ旅行。
1) 違反の概要
 家人に頼まれて、知人宅に1人で物を届けに行った。行く先は都内の片道14kmの距離の場所。環状7号線という広い幹線道路を北上し、カーナビによれば目的地まであと数100メートルという所で、細い脇道に右折する。これはカーナビを見ていてかねて予定していたことだが、問題は、その右折する交差点(「高円寺南5丁目」という小さい信号付き交差点)が、急に(私の印象)近づいた。そのため、無理をして右折レーンに入り、対向車線の車が続くので、直進車線のラインにもまたがって1-2分停車を余儀なくされた。ようやく右折すると、後ろのパトカーがうるさい。自分のことかも知れないと思い、指示に従い、停車した。警官が来て、何で止められたか判りますかと聞く。右折レーンに急に入ったことですかと正直に言えば、認識はしているということで、大目に見てもらえるかと思ったら、そういうことですと、違反切符を切られた。反則事項は「指定通行区分違反」、補足欄に「右折時直進車通行帯通行」とある。ショックだったのは、反則金が6000円と高い。違反点数は1点。

2) 反省点
 反省点は、何よりa) カーナビの右折タイミングの把握をミスしたことだ。実はかねて、これには100%の自信が無く、その箇所に来てからあっここかと焦ることが少なからずあった(通り過ぎたことも若干)。カーナビについては、あらかじめ、右側の2車線を通行してくださいとか親切なアナウンスがあって、私は一般的に評価している(むしろ、頼っている)。右左折は700m前、300m前、直前にここです、とのアナウンスがある。今回の反省で言えば、加えて50m前とのアナウンスもあればいいと思う(高速で動いている時は意味が無いか)。ちなみに問題の交差点では、手前100mに信号付き交差点、30m程手前にも小さい交差点(信号無し)があって、ややこしかった。
b) 不運(?)だったのは、対向車線が途切れず、長い停車を余儀なくされたことだ。かねて直進車線からの右折車線への変更などは、した場合もあったが、直ぐ右折でき摘発されたことはない。
c) 更に不運(?)だったのはパトカーが後ろにいたこと。だが、環7から後ろにいたのか、右折した脇道にいたのかがよく判らない。警官に、運が悪かったのですかねと聞いたら、そういうことは言えないですと当然のことを言う。環7ではよくパトロールしていますよと言われた。
 余談だが、1年ほど前に新聞広告で見て、ドライブレコーダーを数千円で衝動買いしていた*1。帰宅後、それを見て反省しようと思った。たまたま前日に旅行中の録画を確認していたが、その時のSDカードの出し入れが悪かったせいか、カードリードエラーという表示が出ていてその日の分は何も記録されていなかった。残念だが、車線の変更状況、パトカーの出現状況(後方向は見えないが、音が聞こえる)、パトカーのアナウンス内容(実は最初はよく聞き取れなかった)などのチェックはできなかった。もし残っていれば、このブログにもアップできたのに。

3) 米国での経験
 パトカーに止められたのは、日本では初めてだが、実は約30年前に駐在していた米国カリフォルニアでも1度あった。
 夜、日本からの客人を迎えに空港へ行く高速道路上だ。後ろのパトカーが回転灯を華やかに点滅させ、スピーカーで何か言っている。やはり自分の車のことかと思い、路肩に停車した。警官が降りてきて、飲んでいるのかと聞く。どうも少し蛇行運転をしていたらしい。日本酒を1本くらい飲んだと正直に言うと、ワインをボトル1本もかと驚く。いやいや日本酒のボトルは小さいから大した量ではないと言った。そういう遣り取りを少しした後、気をつけて運転しろと、信じられないことにそのまま釈放してくれた。空港での客人の出迎えに支障が無くてほっとした。
 パトカーが回転灯を点滅させてスピーカーで言っていたことは、pull何とかしか聞き取れなかったが、以前英会話本で読んでいた「Pull over.」だった。「路肩に寄せろ」ということだ。
 それにしても、カリフォルニアの警官は、柔軟で理解があった。東京の警官は固い。反則金6,000円は高い*2
 私は、元来不器用で運転がうまいとはゆめゆめ思っていないが、人身事故につながることがなかったのは幸いだった。危ないことはあったが。今後も、居眠り運転防止の「Black black」ガムを噛みながら、シルバーマークを葵の御紋として、注意して運転していきたい。

*1:たまたま今朝の新聞にも広告が出ていて2,980円。これは「夢グループ」の商品で、次のページは少し古いが、他のも紹介している。「安いドラレコは実際どう?格安ドライブレコーダー5選の口コミと使い勝手を比較」 http://car-moby.jp/78517 

*2:しかも、銀行、郵便局だけで、ネットの支払いはおろか、コンビニ支払いも駄目だ。

白内障手術を受ける

 本稿は、5月の弊ブログ「先進白内障手術」 id:oginos:20180501の、「先進」でない、後日談だ。以下、1)手術の経緯、2)点眼の苦労、3)視界の改善について説明する。
1) 経緯
 5月になって右眼が急速に悪化した。視力の衰えもさることながら、霞がかかったようでうす暗く、両眼で見ている時でも右眼の異常が判る。右眼だけで見ると、少し暗い風景は明らかに見えない。7月下旬からドライブ旅行に出かける予定だったので早く手術することとした。(6月25日実施)
 手術自体は、眼の中に異物を入れられているという違和感があって気持のいいものではなかったが、痛みも無く数分で終った。右眼だけの日帰り手術。これで、70年余お世話になった水晶体とはお別れだと思い、若干の感慨に耽る。翌日の検診の時に、眼帯、ガーゼ等は全て外され、本当に視界が明るくなった。
2) 点眼の苦労
 手術の後、数週間にわたって、点眼を3種類、1日4回しなければいけないという。しかも5分以上間隔を置かなければいけない。忘れそうだし、5分間隔も強迫観念になりそうだ。私は元来諸事に不器用だが、目薬もその1つ。家人などは立ったまま点眼するが、私はベッドやソファーで横にならないと駄目だ。
 調剤された点眼薬の種類は、次の写真のとおり。上列の3本が今回の手術後用で、何れも抗菌用と書かれている。下の1本は、かねて緑内障用に処方されている眼圧降下剤で、この2-3年間1日1回点滴している。今回の手術後は、手術の右眼は休みで、左眼だけと言われた。

(点眼間隔の確保)
 点眼間隔5分を待っていると、次の目薬やその順番を忘れそうだ。それで少し工夫し、先ず4分にセットしたキッチンタイマーを用意した*1。また点眼薬3種に、#1、#2、#3と番号を書き込んだ。
 ところが、早々に失敗。 最初に点滴したのが#1と#2の何れだったか忘れ、結局改めて始めたので、どちらかは2度点滴したことになってしまった。その後は、点滴を終えた薬を少し離れた場所に置くことにした。
(点眼の仕方)
 それにしても不器用なせいで、なかなかうまく目の中に入れられない。それで、ウェブで点眼の仕方を調べた。日本眼科医会の「点眼剤の適正使用ハンドブック−Q&A−」というウェブページがある。その他にも薬品メーカーや眼科医のウェブページは多い。
https://www.rad-ar.or.jp/use/basis/pdf/megusuri02.pdf 
 これを読み、私としては驚いたことが幾つかある。
a) 先ず点眼の前(後も)に手を「流水とせっけんでよく洗え」とある(ハンドブックp.1)。「流水」の語にしびれた。行雲流水の世界かと思う。最近ではテレビでおなじみのシマダヤの「流水麺」だ。流水は水道の蛇口で構わないとして、せっけんは面倒だ。みんなはそれほど目薬や手を汚すのかと少し安心。
b) 下まぶたを引いて点眼しろとある。その趣旨は、下まぶたの所に目薬を入れるとのこと。私は今まで、瞳孔(ひとみ)の真ん中に点眼するものと思い込み、両まぶたを上下に開いていたが違うのだ。
c) 日本眼科医会のハンドブックには書かれていないが、他の目薬メーカーや眼科医のウェブページには、上記の下まぶたを引いた上で、眼を上向きにしろと書いてある。しかし、これをすると点眼容器が見えなくなり、眼の中に入れるのに失敗する。この失敗を避けるために推奨されているのが「げんこつ(点眼)法」(同上p.1)だ。下まぶたを下げる手をげんこつ状にして固定し、それを支えにしてもう一方の手で点眼容器を操作するということだ。
d) 点眼後は瞬きをせずに、まぶたを閉じろという。私は今までは、眼の中の局部に入った点眼剤を眼の中に広く分散させるためという思いで、よく瞬きしていた。しかし、瞬きをすると涙が出て、点眼剤が流し出されるのだそうだ。
 ということで、手は適当に洗い、ベッドないしソファーの上でキッチンタイマーを胸の上に置き、げんこつ点眼法を採用し、下まぶたを引いて目を吊り上げる(ほぼ白目状態)という方法に転じた。
(点眼補助具)
 新しい方法は、下まぶたの位置にぴたっと滴下できると快感だが、何故か2回に1回ぐらいは失敗する(目から相当こぼれる)。困って、ウェブを見ていると、点眼補助具というものを見つけた。
 いろいろな種類があり、次のAmazonのページの1番上の行の3種が典型だ。左から、キャップ式(私の勝手な命名)、にぎり式(私の勝手な命名)、アカンベー式と名付ける。私が買ったのは、真ん中のにぎり式だ。
https://www.amazon.co.jp/s/ref=nb_sb_noss_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&url=search-alias%3Dhpc&field-keywords=%E7%82%B9%E7%9C%BC%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E5%85%B7&rh=n%3A160384011%2Ck%3A%E7%82%B9%E7%9C%BC%E8%A3%9C%E5%8A%A9%E5%85%B7 
 キャップ式は、キャップ部分を固定して点滴するために両手が必要だが、にぎり式は片手で可能だ。アカンベー式は、下まぶたを下に下げて目薬を下まぶたの裏側に滴下するもので、少し痛そう。
 こんなものに1,000円近くも投資するかと、若干自己嫌悪を感じながら、「にぎり式」を注文した。翌日配達。早速トライすると完全ではないが、滴下命中率は6-7割に上った。上記げんこつ点眼法の約5割よりアップしているが、内容が違う。げんこつ点眼法の5割は、的中すると殆ど全て目に入るが、外れると殆どが目の外だ。にぎり式補助具の6-7割は、目を吊り上げていても目の中に入る量が6-7割で、すなわち外れてもある程度は入る。
(点眼補助具の問題点)
 入る確率が上って、投資の甲斐があったと少し満足したが問題点も多い。
a) 各回のセットが面倒だ。次の包装箱上のイラストにあるように、点眼薬をこの補助具にセットするのが少し厄介で、3種類の目薬ごとに(5分ごと)にセットし直す必要がある。毎回1種の場合だとキャップを開け閉めするだけでいいが、3種だと面倒だ。

b) 使用できない点眼容器がある。上記の写真で、上列の最右端の容器は直径がやや小さく、にぎりのレバーを押しても容器に届かず、滴下できない。容器の裏側に紙などのスペーサーを差し込めばいいかも知れない。下列の1容器は、他容器の形状がほぼ円筒形であるのに対し、幅広で薄く、そもそもセットできない。この補助具のウェブの説明書でも、適用できる点眼容器に制約のあることは明記してあるが、それでもがっかりした。これらはげんこつ点眼法を適用せざるを得ない。
 そのうち、げんこつ点眼法に習熟して、補助具もお蔵入りになろうと思う。それにしても私は不器用だ。今は退職後だからベッドもソファーも15分程度の点眼時間も自由だが、勤務していると昼や夕方の点眼は大変だったろう。
3) 明るくなった視界
 眼がよく見えるようになって、感謝している。今まで左眼だけに負担をかけていたようだが、右眼も見えるようになって総合的によく見える。例えば、テレビの番組表は、術前までは近くによらないと読めなかったが、今は座っている定位置からもどうにか読めるようになった。今までの眼鏡がそのまま使えそうなのも有難い。
 白内障は再手術ができないらしいので、この眼を大事にしようと思う。具体的には、「毎日新聞」の(朝夕刊にある)数独パズルはやらない*2ポケモンGOは、歩きスマホの危険もあり、止める。更に、詰らないテレビドラマやテレビ番組は、途中でも見るのを止める*3
 これらの時間を主に読書に使おうと思う。また、久しく聞いてなかった音楽も少し聞き始めようかと思う*4。余談だが、本といえば今まで、図書館とAmazonの安価な中古本に偏り過ぎていた。これにより書店が無くなるという恐れは本当だと思う。これからは、本の何割かはリアルな書店に行って買おう。週刊誌も、スーパーやコンビニではなく、書店で買えば少しは助けになるかも知れない。

*1:5分間隔なのに4分にセットした理由は、a)医者や薬剤師の指示はサバを読んでいると見られる、b)目薬の交換等にロスタイムがある、ことだ。なお、このキッチンタイマーは、昨年の弊ブログ「富士山登山(結果)」 id:oginos:20170710 中の「インターバル速歩トレーニング」でも使ったもので、活躍している。

*2:毎日新聞」に限っている所に若干の逃げ道はある。

*3:従来は、家人との共有時間の大半がテレビだったが。

*4:スマホAmazon MusicSpotifyなど手軽。また息子が去年買ってくれたAmazon Echo Dotは、アレクサと声をかけるだけで演奏してくれるのが不精な私には便利。

国体論

 中学の友人から、次の本の感想をブログに書いてくれないかと妙なことを頼まれた。
白井聡「国体論−菊と星条旗(集英社新書、2018/5/6第2刷、第1刷は同年4/22)
 新聞にかねて大きな広告が出ているから、私もその本のことは知っていた。新聞広告のウェブページが見つからないので、集英社のプレスリリースのURLを掲げる。 http://www.dreamnews.jp/press/0000171735/ 
 日本の対米従属の背景を論ずるもので、私は関心があったがわざわざ買う気は起きなかった。理由は、内田樹の有名なブログで対米従属論は何度か読んでいたからだ。無料で読めるのに金を払うのはどうかと躊躇した。ちなみに、内田樹の議論は、戦後日本の対米従属は、当初は日本の自立のための「手段」だったが、現在は「対米従属自体が目的」となっている。安倍首相らは、これにより戦前スキームへの回帰、ないし再軍備を目論んでいるというものだ。私は、安倍首相や右翼の議論は好きではないが、対米従属が目的という論には違和感があり、ブログで繰り返される彼の議論には若干辟易していた。例えば次のページ。
(内田樹の研究室/ 対米従属を通じて「戦争ができる国」へ。) http://blog.tatsuru.com/2015/06/22_1436.php 
 しかし、ジャーナリストたる友人の依頼にも興味を持った。ポジティブな評価を期待しているのか、ネガティブなものなのか。それには、先ず読んでみなければということで購入。結論からいうと、不遜ながら、私の感想はややネガティブだ。
1) 占領体制、従属体制の不可視化
 安倍首相を始めとする、近年の日本の米国へのへつらい振りは異常だが、その原因は、日本の戦後の国体で、天皇の上に(ないし、替りに)米国を置くようになったからだと著者は言う。終戦時のポツダム宣言受諾の際に、日本が「国体護持」に拘ったことは有名で、その場合の「国体」とは、周知のごとく天皇制だった。それが何故米国になっていったか。それには米国の戦略もあるが、それを受け容れるようになった日本国民側の事情もある。
 先ず、終戦直後の1945/9/27に、昭和天皇マッカーサーと会見した時に、天皇が全ての責任は自分にあると言い、それに対しマッカーサーが感動したとの話がある。これにより、マッカーサーは、天皇の高潔さを理解し、天皇に敬意を抱いた、つまり「日本の心」が理解されたとの神話が日本人の間で生れた(同書p.122)。これが現在に至る対米従属の原点だとされる。
 1945年からのマッカーサー体制(占領)は、日本の主権が無い、すなわち支配されている状況だった。しかし、その主権制限は、マッカーサーの「日本の心」の理解により、不可視化され、(国民意識として)否認されたことが、他の被支配国に例を見ない日本の特徴である(p.149)。自由を目指す希求は、被支配の事実を自覚する所から始まる。これに対し、日本の戦後民主主義体制は、自由への希求に対する根本的な否定の上に成り立っていた(p.130)。*1
 被支配の不可視化は、天皇を主権とする戦前の国体が米国を主体とするものに変質したことによる。著者は、1960年の安保改定反対闘争の挫折の後、日本国民は経済重視に転じ、それが成功し、ある意味で米国をしのぐようになった時点で、更に、対米従属の国体は見えなくなったという。
 戦後の米国による占領体制から日米安保体制、それに引き続いての日本の目覚しい経済発展(安保体制の意義が見えなくなった)を経ての現在の対米従属体制という風に、一貫して米国に依存してきたことは事実であろう。
2) なぜ「国体」か。
 しかし、なぜ、戦前日本の体制−戦争を引き起こしたと批判され、戦後は克服されたとされている「国体」の言葉を使うのか。それは、国の統治の精神的権威と国民との親和性において、戦前の天皇と戦後の米国に共通点があるからとされる。
(戦前の国体の3期区分)
 明治維新以降の近代天皇制の形成期においては、天皇と国民との間は、日本国を主宰する「天皇」と支配される「国民」という意識だった。しかし、後期(後述の戦前の第3期)の北一輝などのファシズム思想においては、受動的な「天皇の国民」を、理想国家実現のために能動的に活動する国民へと転化する試みが行われ、その転化が成し遂げられる時、能動的な国民によって押し戴かれる天皇は「国民の天皇」となるとされた(同書p.67)。2.26事件を起した陸軍青年将校たちも、天皇は判ってくれる筈だと信じていたという(しかし、天皇は拒絶した)。
 著者によれば、戦前の国体(=天皇制)は、①形成(明治期)、②発展(大正期)、③衰退(崩壊)(昭和期)の3期に分けられ、それぞれ国民との関係は、①「天皇の国民」、②「天皇なき国民」、③「国民の天皇と名付けられる。詳細は省略するが、第2期の②「天皇なき国民」が大正デモクラシーの時代だ。天皇の存在が当然のものとなって、露わには見えなくなった。第3期の「国民の天皇」の理念は、上述のように失敗し、敗戦による国体の崩壊につながった。
(戦後の国体の3期区分)
 戦後はどうか。戦前の3期区分に準じた3期に分けられる。第1期の①「(対米従属体制の)形成期」は、戦後の占領期、安保体制を通じて日本経済が高度成長する時期で、1971年の2つのニクソンショック(訪中、ドルショック)を境として、次の②「(対米従属の)安定期」に移行する。第3期は、ソ連崩壊後の1991年から現在に至る③「(対米従属の)自己目的化の時期」である。

  • ①「形成期」(1945-71)は、占領、安保体制の中で、米国への従属体制が形成されたが、国民の中で不可視化されていた。米国の庇護の下、朝鮮戦争特需などで、高度経済成長が続いた。著者は、戦前の各期の呼び方に倣い、第1期を①「アメリカの日本」と名付ける。
  • ②「安定期」(1971-91)は、日本の経済地位が高まり、欧米で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とももてはやされた時期で、ヘゲモニー国家の地位が米国から日本に移るかも知れないとの見方もあった。しかし、米国のヘゲモニーは維持され、世界はアメリカ化が当然の前提となった。著者は「アメリカなき日本」と呼ぶ。冷戦の中で、日本は米国側に付くことが利益で、対米従属は合理的な面があった。
  • ③「(対米従属の)自己目的化の時期」(1991-現在)は、1991年のソ連の崩壊以降、冷戦が終了したがそれにも拘らず、日本の対米従属は合理的な説明の無いまま継続している。意義を失ったと見られる日米安保体制について、その積極的維持を図り、かつその他の点についても米国におもねているような態度は何故なのかというのが、本書のポイントである。この時期は③「日本のアメリカ化」と名付けられる。

 ソ連、中国等の侵略から日本を守るという元来の日米安保体制の前提は今や崩れ、今では、「米軍の全地球的(超地域的)な展開を支える体制」というのが米国の認識で(p.308)、日本政府側も「世界の安定維持に関する米国の活動を、日本が支援するための不可欠の枠組」(p.309)と規定された。なぜ日本はそれほど米国に従属し、更におもねるような態度を取るのか。それは、対米従属が国体となっているからと著者は説明する。
 現在の日本の対米従属論(当人たちは対米従属は言わないが)は、愛国=親米=嫌中=嫌韓=戦前回帰が一体となっている。
3) 感想
(現在の対米従属は「国体」か)
 現在の首相や自民党、論壇の多くが「対米従属」であるのは、私もかねてそのように思ってきたが、「国体」と呼ぶには違和感がある。「国体」というからには、「主権又は統治権の所在により区別した国家体制」(広辞苑第7版)だが、米国が日本の主権であるというのは無理だ。もっとも著者もそれは承知の上で、比喩的に用いているのだろう。
 著者は、対米従属論者(ほぼ保守派)は、反中、反韓を主張し、改憲再軍備も共通項だという。米国をバックにした利権を持つ大企業が、政官界に圧力をかけて対米従属路線を導いているという。
 同書では、対米従属を示すいろいろなエピソードが紹介されているが、私としては、個別に見れば異常だが、国体とまで言える戦略的、総合的なものとは思えない。例えば、安倍首相のトランプ大統領へのへつらい振りは異常だが、国家的戦略に基づいているものではなく、首相が交代すれば変るものだろうと思う。
 また、例えば、TPPに関する議論(米国企業による新たな収奪攻勢等、p.291)や中央銀行総裁が祭司的役割を果しているとの議論(p.323)には付いていけない。TPPなどは日本経済に有効な面もあると思う。
(私自身は米国が好き)
 私自身は、40代初めに3年間の米国カリフォルニア州での駐在経験があり、それを踏まえて実は米国が好きだ。ビールやゴルフが安く、規制が少なかった。自動車をディーラーで買ったとき(新車)、その場で運転して帰宅できたことにびっくりした。日本の感覚でいえばいろんな手続きが思い浮かぶ。例えば車のナンバープレートは、現在申請中と書かれたディーラーの紙をフロントガラスに貼り付ければよい。後日自宅に郵送されてきたので、ドライバーで取り付けた。
 その他、イノベーション、種々のスタートアップ企業の出現等には感嘆した。米国の活力の源は、多様性とスタートアップの容易性にあると思った。帰国後、米国の嫌な面も見聞きするが、その他にいろんな意見を持つ米国人がいると思っている。
(対米従属論は陰謀論か)
 私は甘いのかも知れないが、対米従属の現状が異常であるにしても、今後勢いを増すとは思えない。同書では、対米従属論が「陰謀論」と批判されることについて反論している。
 対米従属はある意味で実在しない。何故ならそれは、諸々の現実に対する抽象の先にしか見出され得ないものであるからだ。日常的な視線から見れば、現代日本の抱える諸々の問題はすべてバラバラの事象であり、それぞれに個別的な対処・改善が求められるにすぎない。この視線にとっては対米従属の問題を声高に語る者は「異常な陰謀論者」に映る一方、対米従属の問題を諸々の問題を貫く矛盾の核心と見る者は、日常的な視線の次元にとどまる者たちを「寝ぼけた哀れな連中」と見なすこととなる。(同書p.253)
 私は、上述した通り、バラバラに見ている「寝ぼけた哀れな連中」の1人だ。ただ、日本の今後について楽観している訳ではない。ここ1年間の森友、加計問題その他を巡る国会やマスコミの動きを見ていて、このような明らかな嘘に基づく非論理的な論議が通用する社会に未来はあるのかと思う。卑屈な対米従属が無くなっても、その後に来るのは、理念なき自立 (それによる不安定化) か、新たな他国への従属かと思う。何れにしろ日本の将来は明るくない。
(希望を生み出すか)
 本のカバーに内田樹が紹介文を書いている。
菊と星条旗の嵌入という絶望から、希望を生み出す知性に感嘆。爽快な論考!
 「希望を生み出す」とあるが、私はどこにもそのような記述は見つけられなかったし、希望は感じられなかった。

*1:対米従属論とは別に、この戦後民主主義体制の基盤(自由への希求が無かったこと)を知り、私は改めて感心した。