暇と退屈の倫理学

國分功一郎「暇と退屈の倫理学」(朝日出版社、2011年10月初版)
 新聞の書評*1を読んで、タイトルに興味を持って買った。私もそのうち職が無くなって暇になる。その時に何をしようか、退屈にさいなまれるのか、という不安だ。
 読み始めると、序章に「本書は一息に通読されることを目指して書かれており」とある。読み方を指図するとは失礼なとは思いつつも、その指定に従い、一人で帰省した際の往復の電車の中で読んだ。最後の結論の章に来ると、「(これから提示する)二つの結論は、本書を通読するという過程を経て初めて意味を持つ」と傍点つきで書かれている。これらに見られるようにやや饒舌な評論であるが、面白かった。ある書評では啓蒙書とあったが、私としては啓発されることが多かった。啓発されたことの1つの「定住革命」について先ず紹介し、次いで本書で紹介されている欧州の哲学者の退屈論に関し、「退屈」の各国語の語源との関わりでコメントする。最後に、退屈論に関する感想を述べる。
1) 定住革命
 著者は、人間は何時から退屈しているのかとして、西田正規の「定住革命」*2を紹介している。人類史の革命である1万年前の定住革命以降、退屈という感情が芽生えてきた。定住革命の前は「遊動生活」*3で、人類は狩猟をしつつ場所を移動する。その場合持ち物は最小限で、食料を貯蔵する必要もなく、貯蔵食料の多寡による貧富の差もない。
 これが定住生活に移ったのは、約1万年前に地球上で進展した氷河期から後氷期への温暖化である。それまでの草原が森林になって見晴しが悪くなり狩猟ができなくなったため、やむを得ず漁業、農業を生業とする定住生活がユーラシア大陸各地で始まった。現代では、人類にとって定住生活が当然の前提と思われているが、本来は遊動生活が人類にとって自然であった。定住により、ごみ捨て場、トイレ、墓地等本来的には不自然なものが必要になり、また貯蔵の多寡により貧富の差が生まれた。
 遊動生活では移動のたびに新しい環境に適合しなければならず、毎日も雑事で結構忙しく、脳は絶えず活性化される。しかし、定住生活者が毎日見る変化の無い風景は、感覚を刺激する力を次第に失っていく。従って定住者は、脳を活性化させる別の場面を求めなければならない。これが文明、文化の始まりである。それから、農作業の季節ごとの繁閑、貧富の差により暇な時間、暇な人が生まれてくる素地ができた。「退屈を回避する場面を用意することは、定住生活を維持する重要な条件であるとともに、それはまた、その後の人類史の異質な展開をもたらす原動力として働いてきた。(本書p.88)」
 暇と退屈が1万年前から生まれていたというのには啓発された。
2) 哲学者の退屈論
 過去の有名な哲学者の退屈論が紹介されている。パスカルバートランドラッセル、ハイデッガーその他が、多少ニュアンスの異なる視点から退屈論を論じている。私は、各国語の「退屈」の語源との関連という視点で、コメントする。
(ハイデッガー、ドイツ語)
 ハイデッガーの「形而上学の根本諸概念」という本に書かれている退屈論は詳細に紹介されている。著者の最終的な主張は、このハイデッガーへの批判的分析をベースにしている。私は哲学には弱く、正直言って理解できたとは言えないが、あえてコメントする。
 ハイデッガーの退屈では3つの形式が論じられている。内容の説明は省略してそのドイツ語は、巻末の注によれば、次のとおりである。
a) (第1形式) 何かによって退屈させられること (Gelangweilt-werden von etwas)
b) (第2形式) 何かに際して退屈すること (Sichlangweilen bei etwas)
c) (第3形式) なんとなく退屈だ (Es ist einem langweilig.)
 ドイツ語の講釈は省略して、ポイントは、共通して使われている「退屈」を示す語の要素「langweil」で、その名詞形は「Langeweile (ランゲヴァイレ)」だ。Langeweileは、「lang(英語でlong、長い)」と「Weile(英語でwhile、時間)」との合成語で、「長い時間」が元来の意味だが、「退屈」の意味に転じた(辞書には「退屈」しか出ていない)。
 ハイデッガーの退屈論の紹介では、「ぐずつく時間による引きとめ」、「時間をやり過ごすための気晴らし」、「物特有の時間」、「根源的な時間への引きとめ」など、「時間」との関係が詳細に分析されている。これは、Langeweileの語源に影響されていると考えていいであろう。ハイデッガーの「退屈」は時間の遅れ的な感覚を念頭に置いているように見える。
 ハイデッガーの退屈からの解決策は、「自由」になることで、それは「決断」することによってだとする。著者はよく判らないと批判している。私もよく判らないが、その「自由」とは、引き留められた時間を自分の自由に使えるようにすることで、そのためには束縛を捨てて何かを選択するという決断をしろと言っているように思える。すなわち、ドイツ語の「退屈」は、時間の遅れへの嫌悪感が根底にあるようだ。
(パスカル、フランス語)
 パスカルのフランス語では、退屈は、ennui、アンニュイである。「アンニュイ」は日本語にもなっており、憂愁、倦怠の意味で使われ、語感はロマンチックである(私も若い頃、好んだ語だ)。しかし、フランス語の辞書を見ると、第1義は、「心配、不安、トラブル」、第2義は、「退屈、倦怠」、第3義が「憂愁、憂鬱」、第4義は古語で「悲嘆」だ。ennuiの語源は、英語で言うとannoy(悩ます)で、これが第1義の「不安等」に通じているようだ。
 本書で紹介されているパスカルのパンセでは、「おろかなる人間は、退屈に耐えられないから気晴らしを求めているに過ぎないというのに、自分の追い求めるものの中に本当の幸福があると思い込んでいる」と言っている。うさぎ狩に興じている人に、うさぎだけを与えても喜ばない、追い求めるのはうさぎではないからだ。
 パスカルの退屈への解決策は、神への信仰だとのこと。ennuiの第1義が心配、不安であることから、否定すべき悪だという概念が前提になっているように思える。
(ラッセル、英語)
 バートランドラッセルの「幸福論」の中の退屈論が紹介されている。ラッセルによれば、「退屈とは、事件が起きることを望む気持ちがくじかれたものである」、「退屈の反対は、快楽ではなく興奮である」とのこと。ラッセルの解決策は、「幸福とは、熱意をもった生活を送れること」だ。
 ラッセルの「退屈」の英語は、別途「幸福論」の対訳をウェブで確認したところ*4、「boredom」だ。語幹のboreは動詞で、能動態のboringは、「(対象が)退屈なこと」、受動態のboredは、「(主体の人が)退屈していること」だ。反対語が興奮(excitement)であることも当然だ。動詞もexciting、excitedと、boreに同じ形で対応している。
 人の退屈の表現が受動態をベースにしていることから、解決策も当人から主体的に熱意をもって行動すべきとのことになるのではないかと推測する。
 このように「退屈」の各国語の語源が相当違っていることは興味深い。退屈論の視点には、それぞれの言語上の違いが反映されている面もあるのではと思う。
 「暇」について、著者は「退屈」との関連で詳細に分析しているが、西欧の哲学者はそれほどには取り上げていないように見える。「暇」の各国語は、手許の辞書で見ると、英語でfree time、leisure、ドイツ語でZeit(ツァイト、本来は「時間」)、Musse、フランス語で temps (libre)(タンリブル、本来は「(自由な)時間」)、loisirなどだ。すなわち、単なる「時間」を意味する語で表現されることが多いことに影響しているのではないかと思う。
3) 感想
 暇と退屈にどう対処するかとの著者の結論は、冒頭にも引用したように、「本書を通読するという過程を経て初めて意味を持つ」ものであるし、更に、「結論だけを読んだ読者は間違いなく幻滅するであろう」とまで念を押している*5。従って、著者の結論を引用することはできないので私の感想だけを述べる(著者の結論とは若干違う)。
 著者と世界の哲学者達は、退屈を悪とし、それを克服ないし避ける方法を分析しているが、そうでもないのではないかと思う。日本語の「退屈」の語源は、「仏道修行の苦しさ、難しさに負け、精進しようとする気持をなくすこと」という仏語らしい(広辞苑)。仏道に精進しようとした人が凡人のレベルに落ちてきたぐらいで、必ずしも悪とは見られていないのではないだろうか。
 関連して本書より少し前に読んだ本を少しだけ紹介する。
鷲田清一「待つ」ということ」 (角川選書、2006年初版)
 知人に何か本を紹介してくれと言って教えてもらった本だが、正直言って、全体的によく判らなかった。出だしが、携帯電話などの普及によって「待つ」ことがなくなり、せっかちな社会になったが、それで失われていく、待つことによる悼みの感情があるのではということだ。「待つ」のさまざまな局面が、エッセイ的に並べられている。
 詳細は省略するが、退屈との関連では、「倦怠」というタイトルの節以下4節にわたり、サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」が紹介されている。この戯曲は、先の國分著のあとがきでもちょっとだけ取り上げられている。鷲田著での詳細な解説を見る限り、全く面白くなさそうな戯曲だし、理解できそうもない。待つことと暇つぶしの行動が延々と続いて、結局待ち人のゴトーは現れないらしい。
鷲田著の結論らしきものを少し引用する。

・「待つ」ことに何の保証もないことが、「待つ」ことを可能にしている。
・「待つ」は、期待や予想と連動しているが、それらほど現在に繋ぎとめられていない。・・・ときに偶然に救われ、ときに偶然に裏切られ、そのすべてをさだめとして甘受するという、受動というより受容をこととしてきた。「待つ」は、そういう待機、そういう受容としてあった。

 西欧語の「受動」は、動作の主体と受け手が明示されるが、「受容」は受け手だけで、主体はイメージされないことが多い。「受容」はいかにも日本語的な表現だが、日本人の私としては親しみも湧く。「退屈」も「受容」すれば何ということもないかも知れない。
 職がなくなった後に予想される暇と退屈は、恐れるべきものではないかも知れない。退屈は歓迎すべきことのような気もする。退屈と怠惰の中に、願いとも言えないことの成就を「待つ」過ごしかたもあろう。

*1:日本経済新聞2011/11/20 http://www.nikkei.com/life/review/article/g=96958A96889DE1E4E4E1E7E2E2E2E3EBE3E3E0E2E3E39F8890E2E2E3;p=96948D819791E18D91938D81E38D

*2:西田正規「人類史のなかの定住革命」 (講談社学術文庫、2007年)

*3:「遊動」であって、家畜とともに移動する「遊牧」ではないことに注意。

*4:http://russell.cool.ne.jp/beginner/KOFUKU.HTM

*5:結論で使われている用語(贅沢を取り戻す、動物になること)だけを見ても誤解されることは間違いないと私も思う。