パブリックとプライバシー

 友人に薦められて次の本を買った。
ジェフ・ジャービス「パブリック−開かれたネットの価値を最大化せよ」(小林弘人 監修・解説、関美和 訳、NHK出版、2011年11月1刷発行、原著名 Public Parts: How Sharing to the Digital Age Improves the Way We Work and Live 、2011)

 内容は後述するが、インターネット社会における各種情報のパブリック化とプライベートとの対立を述べたものだ。この場合のパブリックとは、他人との情報の共有(シェア)であり、オープン化、ソーシャル化(フェイスブックツイッター)とは、若干視点が違う面があるがほぼ同義と考えていい*1。プライベートとは、逆に共有化しないことだ。
 買う前の私の問題意識は、フェイスブックなどのSNS(Social Networking Service)の隆盛の中、プライバシー(個人情報保護法とほぼ同義)との関連があまり論じられていなかったので、その関係を整理して見たいと思ったからだ。
 以下、1)「パブリック」書の概要、2)プライバシーを巡る欧州と米国の衝突、3)日本での最近の事例に関する私見、を述べて行く。約7,000文字余のやや長文だが、ご容赦を。
1) 「パブリック」書の概要
 同書は一言で言えば、パブリック、オープンへの賛歌であり、私も、社会、企業、政府、文化、科学技術等の分野では基本的に意見を同じくする。ただ、個人的にはネット上でのソーシャルな交流は面倒との気持があり、限定的に対応している(弊ブログid:oginos:20120212 参照)。以下、同書の中で私の印象に残ったことを幾つかピックアップする。
(パブリック化の利点)
 著者のジャービスは、自分の情報を積極的にオープンにしており、そのパブリック化の利点として、多くの人からいろいろな情報とアドバイスが得られることを第1に上げている。彼のパブリック化の程度は徹底していて、自分の前立腺がんの状況と治療の詳細、その後の勃起不全への対応まで自身のブログ等で克明に公開しているという。そのお蔭で周囲から有益な情報がもたらされ、また他の同じ病気の患者からも彼がオープンにした情報で感謝されている。
 このような集合知の形成は、フェイスブックツイッター、ブログなどのツールの実用化で大きな成果を上げるようになった。プライバシー擁護派は政府による監視の危険を気にするが、ウィキリークスチュニジア、エジプト等での独裁政権の打倒などから見られるように、パブリックは政府を監視し、転覆するツールとしての実績もある。企業経営の透明性を上げるためにもパブリックのツールは有効である。
(プライバシーとのトレードオフ)
 プライバシーについては、著者もその意味を否定できないため、その重要性を相当説明しているが、基本はパブリックのメリットとのトレードオフで考えるべきとする。実際、パブリックに生きている若者たちは、無防備に自分をさらけ出している訳でなく、自分のプライバシーの保護について相当注意している面があるという。両者のバランスを考えるべきだが、現在プライバシー擁護派の声が大きいので、著者はパブリック擁護派の立場から、そのメリットを多く上げているとしている。
 トレードオフの例として、2010年にドイツが位置特定技術と顔認識機能との組合せを禁じた措置への反論がある。著者の反論は、この技術の組合せが役立つことも多いことだ。例えば、行方不明の子供の捜索、津波などの大災害での行方不明者の捜索、群衆の中からのテロリストの捜索などが挙げられる。顔が判っているテロリストを空港の群衆から機械で認識するのは、厳しいセキュリティチェックを行うよりはるかに安上がりであろう。全てトレードオフであり、プライバシーが絶対的に優先されるものではないだろう。
 ちなみに、ドイツはプライバシー意識が特に高い国であって、グーグルのストリートビューが始まった時、モザイク化の請求が多かった。その結果美しい街並みがモザイク化でぼやけた所が多くなったため問題になった。ストリートビューによるプライバシーの侵害については、2011年にベルリンの最高裁は、ストリートビューは公道から撮られた画像だから合法との歴史的判決を下し、著者も大いに評価している。
(新しいインターネット社会)
 現在のインターネットは、道具というより、各組織、人間が活動する「場」(街の集会所、みんながつながる場所)であると考えるべきである。インターネットは既存世界の一部ではなく、もう1つの「並行宇宙」であって、新しい未来への道筋である。既に若者たちは、古い世代が戦々恐々として恐れるパブリックな未来に生きている。
 このような新しい社会に向けたテクノロジーの進歩を阻害していけないことにも配慮すべきだ。プライバシーは変化を妨げ、パブリックは変化を加速する。
(グーテンベルク時代を中心とした3時代区分)
 インターネットの発展を15世紀のグーテンベルクの印刷術の発明とのアナロジーで見ているのも面白い。彼の時代区分は、グーテンベルク時代(1500−2000年)とそれ以前、それ以降(現代及び未来)の3区分だ。
 グーテンベルク時代以前は、知識は写本筆記者によって保存され、口伝えで受け継がれた。グーテンベルクにより、教育は教師の口伝えオンリーから学生の独習も可能になり、記憶は暗記ではなく、本の中に移った。これは社会的に記憶の本質が変ったことを意味する。
 これにより、20世紀まで続くグーテンベルク時代の権力は、本という形の正典を集めそれに精通することで成り立っていた。思考パターンは印刷物の中の直線的な文面を真似て、直線的に考えることだった。この時代の印刷物は同じ版が最終的なものとして大量生産される。これに対し、現代のデジタルコンテンツは、永遠に変更でき柔軟だ。ブログやウィキペディアのように無数の多様な人々のコラボレーションによって作られ、決して終わることの無い永遠のプロセスとして捉えられる。今日の権威は、永遠の変化をマスターすることから生まれるであろう。
(新しいメディアへの既存メディアの批判)
 印刷物が爆発的に増加したグーテンベルク時代の初期に、当時のエリートは動揺したという。有名なオランダの人文学者エラスムスは、「膨大な数の本が学問を傷つける。・・・たとえ良いものであっても度を超えた飽食は何よりも有害であるから。」と嘆いた。イギリスでは国王による出版統制を待ち望む声があった。これは、現在のインターネットに対して、出版社、著者、学者がその質を確保するための方策を見つけるべきと主張しているのに驚くほど相応している。新しい技術に対する警戒は常に出てくる。
 このような新旧メディアの争いは20世紀に入っても絶えず生じている。人類学者のジャック・グッディは、「人類の歴史は生産手段を巡る闘いの物語というより、コミュニケーションの手段と形式をめぐる闘いの物語」だと言う。新興のラジオが出てくると、新聞等の既存の出版業界は、ラジオジャーナリズムが報道の客観性、著作権、民主主義の理念を脅かすと警告した。テレビが新聞を脅かすようになると同様の批判がされ、それが今やインターネットに向かい、同じパターンが繰り返されている。
2) プライバシーを巡る欧米の衝突
 2003年に成立した日本の個人情報保護法は、1980年のOECDのプライバシー保護ガイドラインと1995年のEUの個人データ保護指令に範をとったものと言われている。私も同保護法の施行を受け、勤務先で対応してきたが、一般的には、学校でのクラス名簿の作成ができないなどの過剰対応も見られたので、弊害の多い制度だと思っていた。
 しかし、米国では、フェイスブックの隆盛や「パブリック」書におけるパブリック化の推奨に見られるように、プライバシー保護の視点が少し低いように感じられ出した。また、2001年の9.11事件以降テロ対策として、テロリストと関係の無い一般人も対象にしたデータ監視が行われてきている。一方、欧州では、「パブリック」書でも多く紹介されているように、プライバシー保護のプライオリティが高く、グーグルの活動への抵抗や米国のテロ対策への情報面の協力への違和感も見られる。
(欧米の違い)
 このような欧米間の違いについては、宮下紘の「プライバシーをめぐるアメリカとヨーロッパの衝突(1)−自由と尊厳の対立−」(「比較法文化」第18号、2010年)*2の分析が面白い。以下それに沿って説明する。
 1995年EUの個人データ保護指令は、基本的にEU加盟国を拘束するものであるが、同第25条は、加盟国が第3国に個人データを提供する場合、その第3国も十分なレベルの保護措置を用意していないと提供できないと規定している。しかし、2010年3月現在で、EUから保護措置が十分であると認定されている地域は、スイス、カナダ、アルゼンチンの3国とマン島等4つの島の計7地域に過ぎない。豪州はEUに認定を申請したが保護レベルが不十分と拒否された。米国も日本も認定却下の可能性が高いので、申請していない。
 プライバシー保護に関し、EUと米国との間で相当問題になった具体例が4つ紹介されている。
a) SWIFT(国際銀行間通信協会)が2001年以降の米国のテロ対策への協力のため、米国財務省に個人データを提供していた。これに対してEUの公的機関はプライバシーの侵害として、直接的にはSWIFT(ベルギーにある)を強く批判した。
b) 旅客機の乗客情報の提供が、米国に離着陸する航空会社(外国企業を含む)に義務付けられた。これがプライバシーの侵害に当るとして、米国とEUとの間で政府間交渉が持たれた。2007年に一応の合意に達したが、未だ不一致な点が残っているとのことだ。
c) Eディスカバリー(訴訟手続きにおける電子情報へのアクセスに関するもの、説明は略)
d) 米EU間の妥協としての2000年のセーフハーバー協定(説明略)の遵守状況に関する両者の不一致
(文化的背景の違い)
 これらの原因に関し、宮下は、文化的背景を紹介している。欧州においては、フランス革命以前の身分制による平民のプライバシーの侵害の歴史があり、プライバシーとは人間の尊厳、人格権の一部として理解されている。フランスのプライバシー権は対公権力というより、私人相互間、特にマスメディアからの私生活の保護の趣旨が強い。政府は人間の尊厳を維持するために、私生活内のプライバシーの擁護を図る積極的な役割が期待されている。例えば中絶について、米国ではプライバシーとして中絶の権利が保障されているが、ドイツでは人間の尊厳のため生命の保護が国の義務とされているとのことだ。
 また、ドイツのナチスのように政府の保有する個人データが乱用されたことによる惨劇の経験があり、政府が大量のデータを保有することに強い警戒感がある。すなわち欧州のプライバシー権は人間の「尊厳」、名誉を図ることが趣旨である。
 一方米国においては、憲法上も人間の尊厳への言及は比較的少なく、自由、特に情報の流通に対する政府の規制介入を嫌う憲法上の伝統がある。従って、第1に、プライバシー権とは先ず政府の介入に対抗するためのものであり、私人間のプライバシー紛争への政府の介入には否定的だ。第2に、表現の自由が手厚く保障されてきた。表現の自由とプライバシーとが問題になった時、最高裁は前者を優越させてきた。すなわち米国のプライバシー権は「自由」主義の一環である。
 また、米国では政府保有の個人データの乱用による悲劇の体験が無い。テロ対策については、プライバシーよりも市民の安全が優先される。
 このように、プライバシーは論理の産物ではなく、「社会の産物」であり、その国、地域の文化や慣習がプライバシーの法的性格に影響を及ぼしている。米国と欧州のプライバシーの根底にある「自由」と「尊厳」という対立軸から以上の相違が生じている。
3) 日本での最近の事例に関する私見
 冒頭で述べた、パブリックとプライバシーとの関係についての私の疑念は、前項で一応解決した。ジャービスのパブリックに関する主張は、プライバシーの観点からはやや尖鋭に見えるが、彼1人が過激な訳でなく、米国民の価値観を反映しているのだ。私としては、欧州のプライバシー尊厳主義を盲信することなく、やや安心してパブリックとプライバシーのトレードオフを考慮することができるようになった。今後は個別事例ごとにバランスを取りつつ判断していきたいと思う。
 以下に、上述の論点には直接関係しないが、パブリックに関する最近の報道事例について、少し私見を述べたい。
(ライフログ)
 4月9日放送(午後7時30分から)のNHKテレビ「クロ−ズアップ現代」で「自分の人生、どこまで記録?〜広がる“ライフログ”〜」を見た。パブリックには関係ないような内容だが、後述するように、これはパブリックの一環だと考える。
 余談ながら、驚くべきことに、次のウェブページで放送のテキスト版全文が読める*3
http://www.nhk.or.jp/gendai/kiroku/detail02_3180_1.html
 ウェブ上のサーバーの膨大な記録領域を活用したいわゆるライフログ・サービスを利用して、個人の人生のあらゆる(又は相当な)場面を記録している人が増えているとの話だ。入ったカフェの外観から注文した料理の内容等を写真や文章で記録する。ある大学生は、自動改札機の乗り降りの記録から、携帯電話に内蔵されるGPSなどの位置データ、さらには日々の睡眠の状態までライフログとして残せるようになったので、全て記録し、時間をより効率的に使うことに役立てている。ある人は、これまでの人生46年分の記録を全てデジタル化しようとして、自分の書斎にある日記、アルバム、書籍を全てスキャンしてライフログ化している。
 ライフログはデジタル化だけでなく、手書きの手帳を充実させている人もいる。沢山書ける、ないし沢山張り付けられる大型の手帳の販売が増えているそうだ。
 コメンテーターとしてコピーライターの糸井重里が出ていて、コメントをしている。すなわち、デジタル派については、記録することで自分の生活を管理するとのことだが、本当は管理されたいのではないかとか、若干否定的だ。手書き派については、書いていることで感じる力が高まって行くのではないかと肯定的だ。何れも相当ピンボケだと思う。
 テレビでは全く説明されていなかったが、 デジタル派のライフログには、ソーシャル化、パブリック化させているものが相当あるのではないかと推測する。ソーシャル化には、アクセスできる人を自分の友人ないし特定のグループに限定している場合も含まれるが、フルにパブリックにしている人も多いのではないかと思う。
 ライフログの流行には、自分のプライバシーよりも他人との繋がりを大事にしたい、自分をさらけ出すことにより他人からのコメントを貰いたいというパブリック化への願望があると推測する。私自身としては、ウェブ上での交流に負担を感じる(耳不順の思想)ので、こういうことをしたいとは思わない。
(パスモのストーカー事件)
 4月17日の報道によると、東京メトロの駅員が、ストーカーしていた女性のパスモの乗車履歴をウェブにアップして、それが女性により訴えられたとある。朝日新聞は、パスモのようなIC乗車券を発行している全国21の鉄道会社に確認したところ、14社がIC乗車券の基本情報が駅で検索可能なことが判ったという。それで駅で駅員が検索可能な仕組は個人情報保護上問題だとしている。
 私は、この駅員の行為(私的な目的で乗車履歴をダウンロードし、ウェブにアップしたこと)は許されることでなく、犯罪になり得ることだと思うが、だからと言って、駅で駅員が乗車履歴等を見ることが可能なシステムがそれほど問題だとは思えない。
 その理由には2つの観点があって、第1は、乗車履歴というのは、氏名、住所などと同じく、それほどナーバスに扱わなければならない類のいわゆるセンシティブな個人情報とは思えないことだ。その取扱いはセンシティブ情報に比して多少簡便であっても許されると思う。第2の観点は、駅で駅員が乗車履歴を見られることによる利点が利用者にもあることだ。例えばIC乗車券を紛失した場合、駅で氏名等を述べることにより迅速、手軽にIC乗車券が同定でき、迅速な紛失対策が期待できる。これは利用者にとって便利なことであり、問題は利用者のプライバシー保護とのトレードオフである。
 駅員が勝手にパスモの情報を見ることができず、かつ利用者の利便も損なわないシステムが可能であれば問題ない。仮に、そのシステム構築に相当のコストがかかるとした場合、駅員の乗車履歴へのアクセスを制限するような対策ではなく、駅員が不正をした場合の厳罰で対応することが現実的で望ましい対策だと考える。ジャービストレードオフの考え方である。

*1:ブログもパブリックの重要なツールではあるが、ソーシャルとは言わないのが普通だ。ソーシャルは友人間の交流を趣旨とし、ブログは情報発信を趣旨としているからだろう。余談だが、「シェア」については、同じNHK出版から、この本の1年前の2010年12月に、レイチェル・ボッツマン、ルー・ロジャース著「シェア − 〈共有〉からビジネスを生み出す新戦略」(小林弘人 監修・解説)が出版されている。ボッツマン著の「シェア」は、レンタルなど商品の共有の意味だが、ジャービス著の中でよく使われている「シェア」はウェブ上での情報の共有だ。

*2:http://www.surugadai.ac.jp/sogo/media/bulletin/Hikaku18/Hikaku.18.131.pdf なお、このペーパーは(1)とタイトルされているが、(2)は未だネットでは出されていないようだ。

*3:既に放送された番組は、NHKについては「NHKオンデマンド」により有料で視聴でき便利だが、このテキスト版全文が無料で読めるというのも便利だ。