孔子の教え

 このブログのタイトルは「耳不順ブログ」で、その命名の趣旨は、ヘッダーに引用してあるように、孔子論語の「60にして耳順(したがう)」のもじりだ。

「ブログの公開に当って」(弊ブログ id:oginos:20101003) から抜粋
孔子耳順の意味については、本当はよく判らない面がある。孔子は、50代までは仕官の道を求めて、相当挑戦的だったとの話もある。60歳になって大人しくなったのかも知れない。

 このように、かねて孔子耳順の意味が判らないことが気になっていたところ、昨年「孔子の教え」という中国の映画が公開されたことを、最近遅ればせながら知った。既に映画館ではやっていないようだったが、今月になって、何かのメルマガで、今月下旬にレンタルビデオでもリリースされることを知った。「教え」とは言いつつ、宗教映画というよりも大歴史ドラマだというので、早速借りに行った。耳順の60歳頃の孔子は、どんな状況だったかを知りたいとの興味からだ。
孔子の教え」 2009年中国、2011年11月 日本で公開 http://www.koushinooshie.jp/
 日本で昨年公開と言っても、映画の公式HPを見る限り、上映館は全国累計で25館に過ぎない。首都圏の1都3県では、東京の「シネスイッチ銀座」と埼玉の「深谷シネマ」と寂しい*1
 映画の舞台は、中国の春秋時代の魯の国が中心で、紀元前501年(孔子52歳)から479年(孔子、74歳で没)までだ。参考までに、ウィキペディアの「孔子」の項の、次の年代に相当する。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%94%E5%AD%90#.E5.A4.A7.E5.8F.B8.E5.AF.87.E6.99.82.E4.BB.A3
 映画に登場する前の孔子は、28歳の頃には既に生国の魯の国に仕官していたらしい。52歳の時(紀元前501年)に、魯の定公により、中都(魯の地方都市か)の宰(地方の長官か)に取り立てられて実績を上げる。この功績で翌年大司寇(魯の国の最高裁判官という)、次いで国相代理(偉そう)に抜擢される。それでいろいろ改革を志すが、結果は紀元前497年(孔子56歳)に失脚し、弟子を連れて諸国へ仕官を求める旅に出る。紀元前484年(孔子69歳)に13年間の亡命生活を経て魯に帰国し、その後73歳で死ぬまで、詩書など古典研究の整理を行ったとのことだ。
 孔子の60歳は、魯での失脚後、まだ諸国で仕官できた、ないしそれが期待できた頃である。ただ、何れの国も長続きしなかったようだ。その後の60代の大半は、映画によれば、多くの弟子を引き連れて流浪し、寒さと飢えで苦しんでいる。
(耳順)
 この映画を見ていると、仕官のためには人の言うこともある程度聞かなければならないという俗人の処世の知恵を、孔子は60歳にして知ったということなのかと思う(映画には「耳順」の言葉は出てこないが)。そんな低俗な解釈をしては失礼とは思うが、実際よく判らない。また、70歳は、「心の欲するところに従って、矩(のり)を踰(こ)えず」だが、69歳で魯に帰国した孔子は、映画によれば、長い流浪生活のため気息奄々で(若干の矜持は見せるが)、その翌年に「矩を踰え」られるような元気になるとはとても見えなかった。
(外交、軍事の才)
 映画自体は全く面白くない訳ではない。孔子の理想とする政治は、魯の国の本家筋の500年前の周王朝で定められた礼制を理想とする礼に基づく政治だ。しかし、孔子は礼だけでなく、外交、軍政にも実績を上げた。戦闘場面等の大スペクタクル・シーンも多く(CGかも知れないが)、それなりに楽しめた。色仕掛けの美女も登場する。
(木簡、竹簡)
 それから、映画を見てなるほどと納得したのは、この時代には紙が無く*2論語などの書物は、木簡*3に書かれていた。公式文書や書簡*4もこの紐で綴じられた木簡ないし竹簡で、それが丸めて保管されている。私は初めて見たが、映画にはこの木簡の冊が何度も登場した。流浪生活は、この木簡の膨大な書物を車に載せて運ばねばならず、本当に大変そうだった。現代の紙やストレージは本当に便利だと改めて実感。

*1:シネスイッチ銀座は行ったことがあるが、ややマニアックな映画が多い。深谷の方は知らないが、深谷が急に文化の香り溢れる町に見えてくる。

*2:紙は、世界史でも習うように、後漢蔡倫が紀元後105年頃に発明。

*3:日本で発掘されるもの(1枚もので荷札的用途)と違い、竹製の細長い短冊形状が紐で綴られている。

*4:書簡は、従って「手紙」とは言えない。ちなみに現代中国語で「手紙(ショウジー)」とは、トイレットペーパーやティッシュのこと。日本語の手紙は「信(シン)」という。