ハーバード白熱日本史教室

○ 北川智子「ハーバード白熱日本史教室」(新潮新書、2012年5月発行)

 「ハーバード」、「白熱」とくれば、サンデル教授を連想する。弊ブログでも2回登場した(2010/09/27「ハーバード大学白熱教室@東京大学id:oginos:20100927、2011/0917「サンデル教授の災害補償のあり方」id:oginos:20110917)。
 本の帯紙のキャッチコピー、「若き日本人女性の斬新な講義にハーバード大学が熱狂した!」に惹かれて買った。新聞の書評も概して好評だ。1980年生れの若い日本人女性がカナダの大学に進学し、その後ハーバード大学の教師の職を得て、3年目の今2012年春学期には251人もの履修生を抱える人気講義になっているとの話で、面白いし、感心した。しかし本稿では、最初に1)講義内容(日本史)への疑問を述べ、次に、2)著者の人生、講義方法を絶賛し、3)日本人女性の活躍への感想を述べる。
1) 日本史理論としてどうか
 著者のハーバード大学での人気の講義は、「Lady Samurai」、「KYOTO」の2つで、前者は日本史での女性の役割の再評価、後者は「京都」を定点とした16-17世紀の歴史分析だ。以下前者を中心に説明する。
 著者の講義の前にハーバードで行われていた講義が「The Samurai」で、著者も何年か前にサマースクールで受講していた。その講義では、サムライ文化を賞賛し日本歴史の全てであるかのように説明していることと、歴史の中で女性が無視されていることへの著者の抵抗感から、新しい講義の着想が得られた。すなわち、大名の本妻(例えば、豊臣秀吉の北の政所)などは、Pair Ruler(共同統治者)として日本社会では相当の発言力があったことを紹介し、日本史における女性の役割を再評価しようとするものである(このような女性達がLady Samuraiとして紹介される)。
 外国人にとって日本社会=サムライとなったのは、1900年に新渡戸稲造が「武士道」(原本は英語、Bushido: The Soul of Japan)を世界に向けて発信し、日本社会の理解に多大の影響を与えたからだとする。北米の教育での日本史は、先ずサムライがいなかった時代とサムライが出現した鎌倉時代以降とに分けることから始まるらしい。日本史をサムライ中心の「大きな物語」としている訳で、確かにこの見方はおかしいと私も思う。
 外国人がそのように誤解するのは、2次大戦以降、日本史には「大きな物語」が無かったためだとする。日本としては日本のイデオロギー(大きな物語)を作り、世界に提示することが重要だ。これが日本史には求められており、著者の講義はその一環だと言う。
 しかし、私はこの考え方には大きく2つの点で違和感がある。
 第1は、著者の今回の試みは、男性オンリーのサムライ観から、女性が果してきた役割も評価するという視点の導入だけのように見える。日本に関心を持つ外国人に対して、従来の日本観を修正するような興味深い視点を提供していることの目新しさはあっても、私にはとても日本史全体を再構成するような「大きな物語」とは思えない。
 第2は、「大きな物語」とは、マルクス主義や宗教のような歴史を動かすイデオロギーを言うのであって、ポストモダン論では、そのような「大きな物語」、「イデオロギー」が終焉したのが現代社会であると言われている。著者が今の時代に、大きな物語イデオロギーの提示を主張するからには、一般的なポストモダン論との関係をちゃんと説明しなければいけないと思う。
 もっともこの本は、ハーバード大学の人気講義を一般読者向けに紹介しているものであるので、著者の言う「大きな物語」としての日本史は、著者の別の論文又は今後の研究成果に待たなければいけないのであろう。また著者は「印象派歴史学」という概念を紹介しているが、その醍醐味は、この短い本の中ではよく判らなかった。
2) 著者の人生、講義方法
 前項で少し悪口を書いたが、著者の人生は誠に素晴らしく、全てに全力投入する姿勢には圧倒される。福岡県の高校を出てからカナダのブリティッシュ・コロンビア州立大学に入学し、そこで数学と生命科学を専攻した。その間に日本語ができるという理由から、たまたま日本史の教授の手伝いのアルバイトをした。その時に講義内容への疑問ないしコメントを口にしたところ、日本史をやったらと勧められ、大学院では日本史を専攻。その後ハーバード大学のサマースクールを受けた後プリンストン大学の博士課程に入学した。博士課程の修了後、ハーバード大学のカレッジフェローという教職にパスし、同大学の教壇に立つことになったとのことだ。
 それから3年目で250人もの聴講生を抱えるようになるというサクセスストーリーで、その間の講義方法の工夫等は感動的だ。更に驚いたのは、趣味が多彩で、ピアノは毎日2時間以上練習、絵もよく描き、スケートも西海岸ではアイスホッケー部、東海岸では1人でやれるフィギュアスケートをするとのことだ。スーパー・ウーマンならぬ現代のレディ・サムライかと思う。まだ32歳の女性として仕事に趣味に大きなパワーを発揮している人で本当に感銘を受けた。
3) 女性の活躍
 大活躍している女性は多いが、先月の6月の日経新聞の「私の履歴書」(毎月1日から末日まで連載される)は、物理学者の「米沢富美子」氏だった。この人の公私の生活への全力投入ぶりには本当にびっくりした。3人の娘を抱えての研究への奮闘ぶりは感動的だ(海外の学会での発表の際に連れて行ったこともある)。日本物理学会の会長に選出された時の次の話が面白い(日経新聞2012/6/25)。

 私が(物理学会の)会長になったことは外国でも有名になった。どの国でも女性会長はまだ珍しい。米国で開かれたある国際学会で、米国人の男性物理屋さんと日本人の男性物理屋さんの間で交わされた会話が語りぐさになっている。
 米国人が「日本物理学会は女性が会長になったんだって? すごいな」と称賛すると、日本人は「女? 誰?」と応じ、しばらく考えて「そういえば、米沢は女だなあ」と自分でも驚いた様子で言う。「えーっ、これまで米沢のことを何だと思っていたんだ」と聞くと「科学者だと思っていた」と答えた。

 圧倒された。北川氏より40歳余り年長だが、この人もレディ・サムライだ。米沢の「私の履歴書」と北川の「ハーバート白熱日本史教室」は、2人の人生讃歌という気がする。