戦後史の正体

 新刊というには少し日にちが経ったが、本屋で山積みになっていたので、買った。たまたま戦後思想史について別の本を少し読んでいて*1、戦後史に関心があったからだ。
孫崎享「戦後史の正体 1945-2012」 (創元社、2012年8月10日1版1刷、10月1日7刷発行)
 本稿では、1)同書の概要(自主派と対米追随派)、2)同書を巡る謀略史観、3)啓発されたところを紹介し、次いで、同書に関連する雑談として4)1951年日米安保条約の署名場所に関する私の調査、5)私が昔戦艦ミズーリ号を見学した時に書いた雑文を添付する。約8,000字(旧拙稿の引用分1,300字を含む)と少し長いので予めご了解を。
1) 概要−自主派と対米追随派
 同書は、1945年9月の米国戦艦ミズーリ号上での降伏文書の署名式から始まり、最近の民主党政権までの日米関係を振り返り、それが米国の意向に沿う形で進められてきたことを説明する。
 戦後の日本の政治家、知識人は、自主派、米国追随派に分けられるとして、戦後の首相をこの2派プラス一部抵抗派に分類している。主だった人をピックアップすると次のとおり。(就任順、小泉以降は全掲)
自主派(積極的に現状を変えようと米国に働きかけた)は、重光葵岸信介鳩山一郎佐藤栄作田中角栄細川護熙鳩山由紀夫ら計11名
対米追随派(米国に従い、その信頼を得ることで国益を最大化しようとした)は、吉田茂三木武夫中曽根康弘小泉純一郎安倍晋三麻生太郎菅直人、野田義彦ら計12名
一部抵抗派(特定の問題について米国からの圧力に抵抗した)は、竹下登、橋下龍太郎、福田康夫ら4名
(注、その他大平正芳等7名の首相については、何故か分類されていない)
 岸信介が自主派、吉田茂が対米追随派に区分されていることについては、かねての通念とは違っていてびっくりし、異論を唱える識者もいる。
 占領時代から始まり、日米安保条約はもちろん、ロッキード事件、最近のTPPに至るまで全て米国の謀略だったとしている。また、近年、政治家、政府、マスコミの世界で益々自主派が(米国の意向で排除されて)少なくなり、対米追随派が多くなって、米国の意向に沿うようになってきていると著者は憂えている。
2) 謀略史観
 歴史が特定の組織の謀略で動かされているというのを「謀略史観」というが、この本は、その謀略史観で書かれているということで、その当否が話題になっている。代表例は、朝日新聞に掲載された書評が後日一部削除された件だ。http://gohoo.org/corrections/asahi121021/
 これによれば、9月30日の同紙上での書評(佐々木俊尚氏筆)の一部10行を削除する旨が、10月21日付けの同紙に掲載された。削除されたのは次の箇所。

 ロッキード事件から郵政民営化、TPPまで、すべては米国陰謀だったという本。米が気に入らなかった指導者はすべて検察によって摘発され、失脚してきたのだという。著者の元外務省国際情報局長という立派な肩書も後押ししているのか、たいへん売れている。しかし本書は典型的な謀略史観でしかない。

 この朝日新聞の書評に対しては、先ず著者が、自身のツイッターで激しく非難した(9月30日付けのツイッター)。http://twilog.org/magosaki_ukeru/date-120930/asc
 具体的な事実誤認として指摘している箇所は、「すべて検察によって摘発され」の部分だ。確かに同書で挙げられている政治家追落しの手法は「検察起訴」の他に5つあって、事実誤認であることは間違いない。それ以外にも朝日新聞を手厳しく非難している。
「”謀略史観”と批判している人の最大の欠点は、論じられている個々の案件について全く論ずることなく(多くの場合能力がない)、全体を”謀略史観”として批判する。」
朝日新聞、売れている本を単に貶めようとする書評しか掲載できないなら、書評欄なんてやめてしまえ。・・・・・・私の本を読み、この書評を読めば、改めて朝日新聞のレベルの低さが判る。」
 朝日新聞が訂正記事を出した理由は、このツイッターに触発された人が多くクレームを出してきたからのようだ。同氏の10月21日付のツイッター(http://twilog.org/magosaki_ukeru/date-121021/asc)では、「朝日新聞のこの削除がなされた背景には、本twitterの読者が朝日新聞社ないし関係者に問題点を指摘されたことによる所極めて多大です。ご支援を心より感謝いたします。」とある。ちなみに、この孫崎氏のツイッターの量は凄い。毎月200から300件つぶやいている。橋下徹大阪市長なみだ。
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 発売後2-3か月程度で20万部以上も売れているとのことだが、メジャーな新聞などのマスコミでは、この本の評価は殆どされていないようだ。私がウェブ会員になっている日経新聞の記事検索サービスをチェックしたが、同紙では取り上げていない。同書の紹介や書評(特に批判的なもの)はウェブで調べても少ないことは確かだ。*2
 これは、まさに同書に言う「不都合な事実には反論しない。あたかもそれが何の意味も持たないように黙殺する。それが戦後の日本のメディアの典型的な対応である」(同書p.88)ということかも知れない。
 又は、本当に謀略史観に立っていたずらに危険を煽るものであり、大新聞、大マスコミにとっては論評に値しない書物なのかも知れない。
 私としては、知らないことが多くあって勉強になったが、この本は基本的にまがい物のように思える。ただし、上述の同氏の「・・・論じられている個々の案件について全く論ずることなく(多くの場合能力がない)、全体を謀略史観として批判する」にまさに該当し、具体的な個々の批評はし難い。世界は多分いろいろな要因で動いているのであって、1つの観点だけで単純に仕分けるのは不適切だとの直観に基づく感想だ。
3) 啓発されたところ
 前項で、まがい物と失礼なことを書いたが、本書は勉強になった。その中で、同書の趣旨に沿う意味で気になった(啓発された)ことを2つ述べる。
a) 北方領土問題
 北方領土については、サンフランシスコ講和条約において「千島列島・・・を放棄する」と書かれているのに、どうして国後択捉両島について我が国固有の領土だと主張できるのかと、かねて素朴な疑問を抱いていた。このことは、弊ブログ「竹島尖閣問題(その2)‐国際司法裁判所」(id:oginos:20120825)で紹介した、金子利喜男「世界の領土・境界紛争と国際裁判(第2版)」でも指摘されている。すなわち、国際領土裁判では、第1に関係諸国間に条約又はこれに代る合意のあるものが優先され、これがある場合には先占や実効的な統治があっても考慮されない。サンフランシスコ講和条約にはソ連は参加していず、その後の日ソ交渉でも合意されていないが、日本が多国間条約で世界に向け一旦放棄するとしたものに、どうして権利を主張できるのか不思議だった(南千島は千島列島に含まれないとの外務省の主張はまともとは思えない)。
 孫崎著で紹介されているのは、鳩山一郎政権により1956年から開始された日ソ交渉での話だ。歯舞色丹の返還は死守するが、国後択捉の放棄は止むを得ないとしていた重光葵外相に対し、ダレス国務長官が「もし国後択捉をソ連に渡したら、沖縄をアメリカの領土とする」と猛烈な圧力をかけたとある(同書p.170−)。それは日本とソ連との間に解決不能な紛争のタネを埋め込むためであったとする。
 私としては、信じられないことだし、このダレス国務長官の恐喝的発言の出所が明記されていないことも気に懸る。しかし、日本の北方領土の主張の背景として他に有力な説明を聞いたことがないことから、同書中の米国の謀略とされている数ある事例の中では、相当もっともらしいものと感じられた。もしこれが本当なら、沖縄問題が絡む訳で、政権としてどう対処したらいいか悩ましいであろう。
b) 天皇メッセージ
 孫崎著によれば、1979年に進藤栄一筑波大学助教授(当時)が、米国の公文書館から発見した文書に基づき、雑誌「世界」同年4月号に「分割された領土」という論文を発表した。その中に、終戦後、昭和天皇の側近となった元外交官の寺崎秀成が、GHQ接触して伝えた極秘メッセージが掲載されている。

マッカーサー元帥のための覚書」(1947年9月20日)  マッカーサー司令部政治顧問シーベルト
 天皇の顧問、寺崎秀成氏が、訪ねてきて、・・・米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。(略) さらに天皇は、沖縄に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借・・・の擬制(フィクション)に基づいてなされるべきだと考えている。

 著者も驚いたとしているが、私も驚いた。その後進藤栄一教授に著者が聞いたところ「日本の新聞や学界は全くの黙殺だった」とのことだが、これにもびっくりする。
 昭和天皇の戦争責任論(対外及び対国民)については、脚注1で紹介している小熊英二著では、戦後の複数の時点で繰り返し、保守革新双方で議論されたとある。1951年の講和条約締結時には、天皇は退位すべきとの論が木戸幸一(昭和天皇の側近)、中曽根康弘辺りからも出されたというが、結局、戦争責任論は、天皇も国もあいまいになった。
 このような戦前戦中だけでなく、戦後においても天皇は単なる国の象徴以上の役割を果たしたとする見方が多い。天皇マッカーサー元帥との直接会談は11回に及んだとのことだ。その内容が日本の国民のためのものだけでなく、天皇制の存続のためのものも含まれていたとの見方もある。私は、戦中の戦争責任だけでなく、戦後の昭和天皇の活動の評価も必要なのではないかと秘かに思っている。それをあいまいにしたままの、近年の女性天皇論、女性宮家論、それらへの反対論その他の天皇制に関する立論は適正なのかという疑いを抱いている。
4) 1951年日米安保条約の調印場所について
 1951年9月8日に、サンフランシスコで講和条約(日本対48か国)と日米安保条約が調印されたのは有名だ。講和条約は同市内のオペラハウスで賑々しく行われたのは私も知っていたが、日米安保条約の方は同日の後刻、同市郊外の米国陸軍基地内の下士官用クラブハウスだったことは知らなかった。署名者は米国側がアリソン国務長官以下4名であるのに対し、日本側は吉田茂首相1名だけだ。孫崎は、この調印式が、占領軍の(本国の)基地の中、しかも下士官クラブであったこと(士官と下士官では月とすっぽんの違い)がおかしいという。寺崎太郎(1946年に外務次官)の「下士官クラブで安保条約の調印式をあげたことは、吉田首相一行と日本国民に"敗戦国"としての身のほどを知らせるにはうってつけだったと考えたら思い過しだろうか」との言を引いて、米国の何らかの陰謀を匂わせている。
 私も下士官クラブというのは不思議だと思って調べて見た。結論は著者の言うほどおかしなことではないということで、理由を3つ述べる。理由の前に、米軍基地の場所について、サンフランシスコ市郊外と書いてあるが、正しくは、市内のゴールデンゲート公園内の「プレシディオ」*3という名の広い軍用地だ。その中の陸軍のクラブハウスで調印された。オペラハウスからプレシディオまでは、直線距離で3km余りで、一行は車で移動した。郊外の基地に連れ去られたというイメージではない。
a) 日米安保条約の調印の1週間前の同年9月1日に、オーストラリア、ニュージーランド、米国間の安全保障条約(ANZUS条約)が、同じ場所で調印された。別に日本だけが格下の扱いを受けた訳ではない。http://en.wikipedia.org/wiki/Presidio_of_San_Francisco#Chronology http://en.wikipedia.org/wiki/ANZUS_Treaty
b) 安保条約の署名の風景を撮った当時の写真を見ると、多くの参列者がいる立派な会場であり、こそこそと行われた訳ではない。ウェブをいろいろ見ていると、下士官クラブの1室に吉田首相だけを連れて行って署名させたとの表現があるが、ひどい。
 写真は、次の昭和毎日のウェブにあり、右側3枚の中段の写真。http://showa.mainichi.jp/news/1951/09/post-2bea.html
c) さて、その下士官クラブだが、次のように書いてある文献を見つけた。

1949年、プレシディオ内に大きな第1級のサービス・クラブがオープンした。しかし、下士官(noncommissioned officers)の数が兵(privates)の数より多くなってきたので、その後そのクラブを下士官用の会食室(open mess)として使うこととなった。そのサービス・クラブでは1951年9月1日にANZUS条約、1週間後に日米安保条約が調印された。
(http://archive.org/stream/presidioofsanfra00deparich/presidioofsanfra00deparich_djvu.txt のp.127の関係部分の概要)

 下士官クラブとはいえ、新しくて広く高級な建物だったようだ。
 プレシディオの場所を選定した理由は不明だが、以上のことから、日本を貶めるためだったと自虐的に考えなくてもよいのではないか。*4
5) 戦艦ミズーリ
 第1章で説明されている1945年の降伏文書が署名された戦艦ミズーリ号は、同書の表紙カバーにも使われ、重要な舞台だ。同艦には私は個人的な想い出がある。今からちょうど四半世紀前の1987年に、機会あって乗船し、降伏文書が署名された場所を見学したことがあるからだ。以下、その時に書いた雑文を紹介する。雑文中の脚注は、今の時点で付したもの。興味を持って頂ける人もいると思う。展示されていた降伏文書と署名風景のパネルを私が撮った写真を、不鮮明で恐縮だが添付する。拙文の後に、少しミズーリ号について補足を述べる。

戦艦ミズーリ  (在サンフランシスコ 荻布真十郎)
 「ミズーリ号がサンフランシスコ港へ……」 通勤中のカーラジオのニュースがこういうことを言ったようだ。ミズーリ号、はて、どこかで聞いたような。耳をそばだてる。「歴史的……、戦艦……、日本……、7月4、5日に一般公開……」 思い出した。太平洋戦争の降伏文書の署名は、東京湾に停泊したミズーリ号の甲板で行われた。傲然と立っている米軍司令官の前で重光葵外相が1人机に座らせられて署名している有名な写真が想い出される。
 あれは42年前の9月2日(後日の調べ)。その戦艦がまだ動いているとは。胸が騒ぐ。7月4日(独立記念日で休日)に見に行くことを決心。ついでに新聞記事を調べて見る。
 同艦の今回のサンフランシスコへの寄港に伴うトピックが2つある。第1は、米艦スターク号がイラクから撃沈されたことが端緒となったレーガン(大統領)のペルシャ湾防衛構想が本決りとなれば、ミズーリ号が7月中にもペルシャ湾に派遣されるとのことで注目を集めている。
 第2は、ミズーリ号の母港を2年後にもサンフランシスコ港に移す計画があり、賛否両論がかまびすしい。賛成論は雇用創出(6,814人との試算)等の経済効果。ミズーリ艦隊は、計11隻からなり、乗員は計5,863名と巨大なもの。
 反対論は、住宅不足、交通渋滞等環境悪化への反対から軍備拡張反対などが普通のもの。変った反対論は、海軍がゲイを「恐喝に屈しやすい」としてミズーリ号母港関連業務から排除する方針を明らかにしたことに始まる。次期市長選に立候補を予定している主要な5人のうち2人が、ゲイへの差別に反対との立場から母港問題に反対だ。
 さて当日、賢明にも混雑を予見した妻が子供を連れて行くのに反対したので1人で出発。駐車場を見つけて長い行列に並び始めるまでに30分。待つ人の中には相当の年配の人もいることがミズーリ号の歴史を語っている。並び始めてから3時間で艦上へ。大きい。資料によれば、排水量58,000トン、長さ266メートル、速さ30ノット以上。
 問題の降伏文書の署名が行われた甲板の床には銘板が埋め込まれ、横の壁には降伏文書と調印式(署名式)の写真が掲示されている*5。その前には見学の米国人が滞留していて行列が進まない。昨今の日米貿易摩擦への苛立ちから、再び日本が降伏する夢を見ている米国人がいるのでは。
 米国人の関心とは違うであろう感慨で私も降伏文書(Instrument of Surrender)を一読した。主文は「ポツダム宣言を受諾する」で、これが降伏のことかと改めて納得。日本側の署名者は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長。英文文書に漢字で署名。持ち慣れないペンで横書きのためか、緊張のためか、船の揺れのためか多少金釘流に見える。連合国側が9か国も署名していることも初めて知った(米、中、英、ソ、豪、仏、加、蘭、NZ) *6。このため、全員が座れる大きな机が艦上に無く、署名者が順に机に座って署名したものと思い至った。重光外相が皆の前で屈辱的に1人机に座らせられて署名したという、私の昔からのイメージは誤解だったようだ。
 ミズーリ号訪問は、私の小さな戦後に一区切りをつけてくれた。米国人の関心も高いため、複雑な気持ながらも、米国人と共有している歴史があるという実感を初めて味わうことができた。  [通産ジャーナル 1987年11月号]


(ミズーリ号についての補足)
 ミズーリ号は、1944年に米国最後の戦艦として就役。太平洋作戦で活躍し、上述のとおり、東京湾で降伏調印式の舞台となった。東京湾以降は、大西洋海域で就役していたが、1950年の朝鮮戦争勃発後、その作戦に従事し、横須賀や佐世保にも寄港したとのこと。1955年に退役し、シアトル近郊の軍港でいわゆるモスボール保管*7により保存されていた。その後米国海軍の方針変更により、1986年に再就役した。私が見学したのはこの翌年だ。
 以下は、Wikipediaの「ミズーリ(戦艦)」からの引用。再就役以降はペルシャ湾の作戦等に参加した。1992年に退役し、1992年からハワイの真珠湾で、アリゾナ記念館(真珠湾攻撃で撃沈、水没した戦艦アリゾナの真上にある記念館)の後方で記念館として公開された。
 拙文で紹介した再就役後の母港問題は、再就役直後のロングビーチのままのようだから、母港の変更はサンフランシスコの反対のため実現しなかったのだろう。米国海軍もその後ゲイに寛容になったとのことだから(例えば、http://www.milkjapan.com/1998kn07.html)、もう何年か遅ければサンフランシスコが母港になった可能性はある。
 母港問題はともかく、ミズーリ号は米国人に人気があり、「マイティモー」の愛称で親しまれている*8。また、1992年の米国映画(日本公開は翌年)「沈黙の戦艦」(主演スティーブン・セガール)の舞台はもっぱら航行中のミズーリ号艦上だ。ただ航行中の遠景は本物のミズーリ号だが、艦上や艦内の撮影は別の戦艦アラバマだそうだ。

*1:小熊英二 「<民主>と<愛国> −戦後日本のナショナリズムと公共性」(新曜社、2002年10月初版発行) 絶賛している人がいたので図書館で借りた。章別に拾い読みをして、半分ほど読んだところで借出し期限も過ぎたので返却。フルに読んだ訳ではない。

*2:例外的に、「サンデー毎日」11月11日号に佐高信氏が批判を書いているとのことで、部分の孫引きだが紹介する。http://d.hatena.ne.jp/vanacoral/20121030

*3:1988年の米国映画「プレシディオの男たち」の舞台。主演 ショーン・コネリー、メグ・ライアン他

*4:余談だが、私がサンフランシスコに駐在していた頃(次項で述べるミズーリ号を見学した時)、頼まれてある若手代議士の案内をしたことがあり、その代議士は講和条約のオペラハウスの見学を希望された。その後、安保条約の調印場所は別の所と聞いているがと言われ、そのことを私は知らないと答えてしまった。今思い出したが、全く恥かしい。

*5:実際の署名はオープンな甲板上だったが、銘板の場所は艦内に移動されていた。

*6:補足だが、連合国側署名国の1番から4番は、米、中、英、ソ連で、これは1945年7月26日のポツダム宣言の参加国だ(ソ連は、日ソ中立条約を8月8日に破棄後、参加)。このうち、中国とソ連が1951年のサンフランシスコ講和条約には参加していない。

*7:mothballは防虫剤のことだが、軍艦等を錆付けを防ぐ処置をし、再使用に備えて保管すること。米国人に聞いた所によれば、歯車など可動部分をを油漬けにするのだという。サンフランシスコから北東方向に100キロほど行くと道路沿いの湾に何隻もモスボールされた艦船を見ることができた。

*8:Mighty MO。新聞の見出しにも使われていて最初理解できなかったが、「MO」はミズーリ州の郵便番号用の略称(カリフォルニア州のCAの類)ということに思い至った。