ヘモグロビンA1c目標値の改訂

 かねて述べているように、私は糖尿病で、2か月に1回程度の頻度で、糖尿病専門医との看板も掲げている近くの医院に通っている。
 この6月も、何時ものように血液検査をした後に診察を受けると、妙なことを言われた。5月に日本糖尿病学会があって、糖尿病治療の新しい目標値が発表され、ヘモグロビンA1cで7.0未満になったとのことだ。先生は、従来は6.5未満が目標だったのに、何故変更されたのかよく判りませんと当惑気味だった。当日の私の値は6.7で、2か月前より0.1上昇していたが、7.0未満だし、まあこの調子でがんばりましょうとなった。
 帰宅してから、糖尿病学会の報告を調べてみた。確かに5月16日に熊本市で開催された同学会の年次学術総会で「熊本宣言2013」が発表され、大々的にPRされている。以下、熊本宣言2013の概要とその根拠に関する疑問等について述べる。
(熊本宣言2013)

熊本宣言2013 
あなたとあなたの大切な人のために Keep your A1c below 7%

http://www.jds.or.jp/common/fckeditor/editor/filemanager/connectors/php/transfer.php?file=/uid000025_6B756D616D6F746F323031332E706466
 学会の発表文とは思えないようなキャッチフレーズにびっくりする。何故「大切な人」が出てくるのか、何故英語が出てくるのか理解できない。更に驚くのは、熊本県ゆるキャラくまモン」をあしらったマークまで作っていることだ。
 宣言の最終4ページの参考資料に目標値が3つ掲げられている。

「血糖正常化を目指す際の目標」 6.0%未満
「合併症予防のための目標」 7.0%未満
「治療強化が困難な際の目標」 8.0%未満

 宣言本文では、「合併症予防の目標値」だけが前面に出されている訳だ。この6月から実施するとのこと。

(従来の目標)
 「熊本宣言2013」以前の基準は、2004年5月に日本糖尿病学会が発表した、「科学的根拠に基づく糖尿病診療ガイドライン」だそうだ。ヘモグロビンA1cの指標の部分だけを掲げる(他に、各種の血糖値の基準もある)。
コントロールの評価とその範囲(2004年5月 日本糖尿病学会)

指 標  可(不十分) 可(不良) 不 可
HbA1C(%) 6.2未満 6.2〜6.9未満 6.9〜7.4未満 7.4〜8.4未満 8.4以上

 2004年の発表当時は、旧A1c(JDS)表示だったので、この表では2012年4月から切替が始まった新A1c(NGSP)表示に換算してある。すなわち旧A1c値に0.4プラスしてある(弊ブログ id:oginos:20120129 参照)。これを見ると、今回の改訂の特徴の1つが、6、7、8という「きりのいい数字」の導入であることが判る。
引用元ブログ http://www.lifescience.jp/ebm/cms/cms/no.9/comment/comment.htm

(コメント)
 こういうのを見ると幾つか皮肉を言いたくなる。
a) 5段階から3段階への簡素化
 殆んどの報道等では、従来の5段階から3段階に簡素化されたと言っている。しかし、基準値は、旧ガイドラインでは、6.2、6.9、7.4、8.4の4種、新宣言では、6.0、7.0、8.0の3種で1つしか減っていない。旧ガイドラインの5段階は優良可等の範囲の数だが、新宣言では、最上目標値の8.0を超える領域を加えれば4段階ある。従って1つしか減っていない。
 2004年以前は、4段階だったのが、同年に「可」の段階を「不十分」、「不良」に細分したらしく、この段階数の増加は当時「特筆すべき」と評価されている。*1 段階数で言えば、2004年以前に戻った訳で、これは進歩なのだろうか。
b) きりのいいところで区分
 基準値が6.0、7.0、8.0ときりのいい値になったのは、判り易いと評価している向きもあるが、根拠が大ざっぱであること(後述)の反映ではないかとの疑義も感じられる。
c) 科学的根拠
 上述の2004年の「科学的根拠に基づく糖尿病診療ガイドライン」というタイトルの「科学的根拠」は何だったのだろうかと思う。従来は、科学的根拠の無い診療だったのか、それにしてはその後今回も改訂されている。同じ「科学的根拠」の語を付したガイドラインの2013年版が予定されているようだ。
 これについては、多分米国の影響として近年よく言われるようになって、私も聞いたことのある「EBM (Evidence-based Medicine 根拠に基づいた医療)」の影響なのだろうと思う。しかし、学会の発表する資料のタイトルにあえて「科学的」の語を使うのには、違和感がある。
d) 熊本スタディ
 今回の改訂の根拠として、同宣言では、a)「熊本スタディ」の結果、b)諸外国の例から、としか説明されていない。学会での議論がウェブ上では見られないので、b)諸外国の例が何であるかは具体的に判らない。
 a)「熊本スタディ」の方は、同宣言に、1987年から1998年にかけて熊本県で行われた調査のことと書かれている。ウェブで調べると、次のような調査概要が掲載されている。これによれば、調査は1987-8年に行われ、その後に6年間の追跡調査が行われた。
http://www.dm-net.co.jp/daikibo/5_kumamoto_study/
 意外なのは、調査対象者が、熊本県下の110人に過ぎないことだ。それに、この調査の元来の主眼は、「従来インスリン療法」群と「強化インスリン療法」群との比較のようだ。いろいろ分析されているが、A1cの目標値に関連しているのは、最後に突然出てくる「図4 網膜症、腎症の悪化率とHbA1C空腹時血糖値、食後2時間血糖値との関連」というグラフだけだ(もっとも概要版だけを読んでの話だが)。これにより、結論はA1c 6.5(現在の表記では6.9)未満では合併症の悪化は認められなかったとされているが、本当にそれでいいのだろうか。
 疑問の第1は、対象患者が熊本県下の110人と少ない。第2は、対象が全て、インスリン療法(強弱2種)を受けている患者であることだ。私のように、インスリンではなく投薬治療の段階の患者の目標として適切なのだろうか。第3は、15年前に終了した古い調査なことだ。「根拠」となり得るような国内調査が他には無いのだろうか。
e) 科学者の説明責任と信頼感
 糖尿病学会の発表は、今回に限らず説明が少ないと思う。弊ブログ(「ヘモグロビンA1c値の変更」 id:oginos:20120129)でも述べたが、昨2012年4月のA1c標記のJDSからNGSPへの切替の際の同学会の発表は、国際標準への対応ということと換算には0.4をプラスということしか説明していなかった。JDSとNGSPが同じHbA1cという名前なのに、何故値が異なるのかということをちゃんと説明しないというのは、患者(それから多分多くの一般医)を愚弄していると思う。上から目線なのか、根拠が複雑過ぎて説明できないのか。
 学会内部でどのように議論されているかウェブを見ているだけではよく判らないが、外部に説明しないようでは、「科学的根拠」が泣くのではないか。冒頭に述べたように、私の近くの糖尿病専門医(糖尿病学会の認定を受けていることを学会のHPのリストで確認した)も当惑している。
 福島原発事故以降、科学者への信頼が低下している。科学者同士で議論しても結論は出ないということが明らかになっている。今回の糖尿病の事例を見ても、実際は明解な科学的根拠など無いのではないかと思えてくる。それならば、医者を絶対的に信用することなく、自分の体を自分で監視して判断していくことが必要なのだと思う。