インド雑記(6) ヒンディー語

 新しい国に行くことになると、その国の言葉を少しでも勉強したくなる。ところが、インドについてはそれが少しややこしい。インドの言語は主なものだけでも30程度あると言われ、州単位の公用語もあり、今回訪問したデリーはヒンディー語、ムンバイとプネ(マハーラーシュトラ州)はマラーティー語だという。とても複数の言語に挑戦する意欲は無く、取りあえず雰囲気だけ味わってみようということで、ヒンディー語に挑戦することとした。当然ながらマスターすることはできなかったが、本稿ではその過程で得たつたない知識も踏まえ、1)インドの多言語の状況、2)ヒンディー語の特徴、3)ヒンディー語の使用経験、を紹介する。
1) インドの多言語の状況
 インドの公的言語について、先ずインド憲法(1950年施行)第343条で、連邦政府の公的共通語としてヒンディー語と英語を定めている(英語は将来のヒンディー語への全面移管までの間の準公用語との位置付け)。更に同憲法の第8付則において22の言語が規定されている(このリストに、ヒンディー語はあるが、英語は無い。従って憲法では23の言語が規定されている。) *1
 多くの州では、各州の公用語を定めており、その中には憲法第8付則に規定されていない言語もあるらしい。ヒンディー語公用語としての普及は各州の反対もあり、進んでいないようだ。その他にも多くの言語があり、総数260に上るとも言われている*2。方言は2000に上ると言われる。
(紙幣の言語)
 言語の多様性を反映して、インドの紙幣には17の言語が印刷されている。インドの公用語の数が17とよく書かれているが、これに基づいているのであろう。私の持っている10ルピー紙幣の表裏の写真と裏面の15言語が書かれている部分を拡大したものを載せる。


 この紙幣の各部分の解説が、100ルピー紙幣の写真を基に次のページに掲載されている。
http://www2m.biglobe.ne.jp/~ZenTech/money/banknote/p07_india_zoomin.htm
 表は、ヒンディー語と英語だが、裏面には更に15の言語で金額が書かれている。驚くべきは文字の種類も多くあることで10種類もある。アラビア文字は右から左に向かって読む。
(道路標識)
 デリーを案内してくれたガイドが、道路標識が4つの言語で書かれていると教えてくれた。写真を撮り損なったが、ヒンディー語、英語、パンジャーブ語、ウルドウ語(アラビア文字)で書かれているそうだ。後者の2つは、デリーに近い州の公用語とのこと。
(インド人同士のコミュニケーション)
 ムンバイからプネへの飛行機で隣に乗り合わせたインド人が話しかけてくるので英語で雑談していた。彼は仕事の関係で4つの州にしばしば行くが、そのうち2つの州の言語が判らない。すなわち、住んでいるバナーラス市(ガンジス河岸の沐浴で有名)はヒンディー語、プネのマラーティー語は何とかなるが、南のタミルナードゥ州のタミル語、西のグジャラート州グジャラート語は判らないという。どうするのかと聞いたら、インド人同士、英語で仕事をするという。英語は70%の人が話すからだというが、大変なことだと思った。
2) ヒンディー語の特徴
 上述のとおり、9月中旬からヒンディー語の勉強を始めた。旅行用会話集*3を買ったが、言葉の仕組がよく判らないので、もう少し文法などを説明している薄い語学書を買った。*4 *5 以下は、2か月余り勉強した範囲での私のヒンディー語の印象だ。
a) 語順
 語順が日本語とほぼ似ているのに感心した。例えば、「アグラ(地名)までの切符」は「アグラ・タク(まで)・カー(の)・チカト(切符)」となる。ここで「タク(まで)」、「カー(の)」は、英語などの前置詞にほぼ似た機能だが、後に置かれる単語なので「後置詞」という。日本語なら「助詞」だ。ちなみに前置詞は無い。動詞が文の最後に置かれるのも嬉しい。
b) 動詞活用の男女の別
 男性、女性の別が、名詞(形容詞、冠詞を含む)の活用だけでなく、動詞の活用にもあることにびっくり。ヨーロッパの言語ではあまり聞かないのではなかろうか。代名詞には男性、女性の別はないが、動詞の活用で区別できる。ごく簡単に説明すると、主語が男性(人の場合)や男性名詞の場合、多くの動詞の語尾は「アー」、女性(人の場合)や女性名詞の場合、多くの動詞の語尾は「イー」である(以上は単数の場合。複数の時はそれぞれ、「エー」と「イーン」)。
 1人称で話す場合、男と女で動詞の語尾が違うというのは、日本語の男言葉、女言葉の別を連想させて面白い。ただし、事実上の主語と文法上の主語が違う場合(理解しにくいだろうが、他動詞の完了形の場合)があって話は単純ではない。3人称代名詞も近称、遠称の別はあって、英語のhe、sheのような男女の別はないが、動詞の語尾で区別できる場合が多い。私は読んだことがないが、小説のラブシーンなどの場合、どちらがしゃべったか、どちらがしたか、など地の文で説明しなくてよくて便利かも知れない。
 名詞の活用語尾も、主格・単数の場合、普通の男性名詞が「アー」、普通の女性名詞が「イー」だ(普通の活用をしない名詞も多いが)。これにはやや違和感を抱く。ヨーロッパの言語では、aの語尾は女性名詞というのが普通で、男性名詞の語尾も定形化されている場合は o だろう(例、イタリー語、エスペラント語)。この違和感については次で説明。
c) ヒンディー語は本当に印欧語族
 ヒンディー語は、インド・ヨーロピアン語族(印欧語族)に属し、従って、英語、フランス語、ロシア語、ペルシャ語(アラビア語は別の語族)などと親類とされている。しかし、上記のa)の語順、b)の男性・女性名詞の語尾の違いなどを見ると、ヒンディー語は本当に印欧語族かと私はいぶかしく感じた。
 言語の親族関係は、単語の類似関係で分析すると理論的に説明されているが、現実の単語を幾つか見ていっても欧州語と類似関係にあると思われるものが殆んど感じられない。もちろん、19世紀の英国占領以降の英語からの借用語と見られるものは多いが、基礎的な名詞には欧州語を連想させるものはあまり感じられなかった。
3) ヒンディー語の使用経験
(レストランの予約)
 私の外国語の勉強の目的には、習熟しようという意図は全く無い。取りあえず文字の読み方を知り、その国の地名や標識などが読めると観光などの場合に親しみが湧くだろうとの期待だ。勉強の時間に余裕があると、レストランの予約をすることを次の目標にする。日時と人数を言えればいいから比較的容易で、予約できた場合には割に達成感がある。
 こんにちは、ありがとう、など片言の挨拶だけでも現地の言葉で言えば、現地の人と心の交流ができて楽しいと会話本に書いてあるが、私はそうは思わない。内容が無いし、話が続かない。それに、インドでは「ダンニャワード(ありがとう)」と言っても、相手の反応が今一つのような気がした。それで、「インドでは大したことでないことにありがとうと言うと、こんな詰らないことでお礼を言うのかとバカにされる」とある本に書いてあったのを思い出した。*6 「インド雑記(1)天気予報が無い」にも書いたように、毎日の天気も季節内は変らない。昨日と同じ天気で、「いい天気ですね」と言うと何を言っているのかと言われそうだ。異文化間の心の交流も難しい。
 閑話休題、ということで、デリーで友人と行く郊外のレストランを決め、電話で何とか夕食を予約した。仕事が終った友人から人数が増えたと言われたので、人数の変更のためまた電話した。ところが、これが通じない。もう既に2人で予約できているとがんばる。私もヒンディー語でがんばっていたが、遂に先方が業を煮やして英語のうまそうな人に代った。代った人は一言、”How many people?” 私も一言、”six.” これで話は終ったが、「変更」が通じなかったことで私は傷ついた。その後、6人がホテルのロビーに集まり、タクシーの手配が遅れたため、レストランに時間の遅れを連絡することになった。私は再度電話する元気が出ず、みんながホテルのコンシェルジェに変更の電話を頼もうと言ったので、異議なく賛成した。
(バーラトは難しい)
 失敗談をもう1つ。前述の飛行機で隣に乗り合わせたインド人との雑談の中で、ヒンディー語の勉強の話になった。*7 それで「私は日本人、貴方はインド人」などと詰らないことを言ってみた。インドはヒンディー語では「バーラト」、インド人は「バーラティーヤ」と言うはずだが通じない。何度か試みているうちに、先方は私の間違いにやっと気が付いてくれた。すなわち、ヒンディー語の「b」には無気音と有気音とがあり(アルファベットでは、bとbhとに書き分けられる)、それが違っていたのだ(インドはbhaarat)。私は全く聞き分けられないし、発音の区別もできないので、いい加減に覚えていたのだが、baaratと発音し、先方にはそれが全く別の単語に聞こえていたのだ。
 この無気音と有気音との別は、k-kh、g-gh、c-ch(チャと発音)、j-jh(ジャと発音)、p-ph、b-bh(前述)と多い。t系、d系には、更に、歯破裂音に加えそり舌破裂音(舌を口蓋の中央部に付けて発声。ここでは便宜的にイタリックで表記)がある。すなわち、tにはt-th-t-thの4種、dにはd-dh-d-dhの4種があり、私には全く区別できない。先ほどのバーラトが通じなかったことで、これら全てを区別しなければならないかと思い、私としては、ヒンディー語をこれ以上学ぶ気力を全く無くしてしまった。
 語学の勉強というのは、コストパフォーマンスが最悪だとつくづく思う。多大の時間を費やしても初歩的な実用のレベルにも達しない。勉強を中断すると、自転車の練習と違い、直ぐに忘れてしまう。観光旅行で行った場合だと、帰ると接する機会が無く、あっという間に元の木阿弥だ。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E5%85%AC%E7%94%A8%E8%AA%9E%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

*2:辛島昇 監修 「(読んで旅する 世界の歴史と文化) インド」 (新潮社 1992年11月)

*3:黒澤明夫 「(一人歩きの会話集)ヒンディー語」 (JTBパブリッシング、2009年10月初版)

*4:町田和彦 「ニューエクスプレス ヒンディー語」 (白水社、2008年9月1刷、2013年1月5刷) この本は薄いが説明はいい。これ以外のヒンディー語語学書(例えば大学書林の「基礎ヒンディー語」は6500円)は、厚くて高価なものになって、私には手が出ない。

*5:余談だが、新宿の大きな書店ブックファーストに行って探した。「アジアの言語」コーナーに無いので驚いた。ヒンディー語は「その他の地域」コーナーにあった。

*6:ありがとうに関しての日米比較との対照も面白い。米国人は、日本人がありがとうと言う場面が少ないことと、同じことに何度もありがとうと言うことが気に懸るそうだ。米国人は、例えば店員からお釣りをもらっても、ドアーを開けてもらってもサンキューと言うが日本人は言わない人が多い。日本人は、例えば1度ご馳走になると、その後いつ会ってもあの時はありがとうと言うが、米国人は礼は済んでいるはずなのに何のことかと訝しむ。米国人でも2度礼を言う場合があるが、その時は Thank you again とはっきりさせる…そうだ。

*7:私は元来飛行機の中でも列車の中でも、用事がある場合は別として殆ど隣人と話をしない。特に外国で相手が外国人の場合は苦手だ。逆に日本で外国人から下手な日本語で話しかけられても、話題が詰らないし、時間がもったいないと思う気質だ。従って、自分の外国語の練習になると思う場合でも、相手は迷惑だろうと考え、そこそこに切り上げるのが常だ。そばに日本人がいると、なおさら恥かしくて(語学の勉強などしていて暇だと思われる)話せない。今回は相手のインド人が話し好きだった。