70歳! 五木寛之

 何回も書いているように、私は今年70歳だ。
 新聞のベストセラー案内に、五木寛之/釈徹宗「70歳! 人と社会の老いの作法」(文春新書、2016/8/30)が出ていて、気に懸っていた。新書だから値段も手軽で買ってもいいが、あいにく私は五木寛之が苦手だ。読まず嫌いだが余り肌に合わず、買う気にならない。しかし、70代1年生としては書名が気になる。地元の図書館で予約した。
 「70歳」の書名から期待したことは、a)残りの人生、何をして生きていくか、b)どういう風に死を迎えるかについての有難い助言だった。しかし、ほぼ裏切られた。以下、私の抱いた違和感を述べる。

  • この本は、五木寛之(1932年9月生れ、執筆時83歳)と釈徹宗(1961年生れ、55歳? 浄土真宗の住職兼大学教授)との対談録だ。
  • 83歳と55歳では、書名の70歳からは余りにも外れていて、話題にも70歳は殆ど出てこない。昨年が戦後70年ということで思いついた書名ということらしい。戦後70年経過したことと人間が70歳になることとはほとんど関係がないことと私には思える。著者達も、現代人の人生は30年を一区切りにして考えるべき、すなわち30歳までの世代、30-60歳、60歳-90歳の3つの世代で人生論、文化などを別に考えるべきというような話で盛り上がっていて、70歳が話題になることは殆どない。
  • 第1章「70歳になった日本で」は、現代日本社会に関する井戸端会議的な感想で、第2章「死生観を持てるか」と第3章「日本人の宗教観はどこから来たか」は、真宗系の作家と真宗の宗教家の宗教論議だ。現代日本仏教徒が何をすべきかという話を期待しても、雑駁な感想や反省ばかりだ。市井の悩める70歳にとって具体的な指針は判らない。
  • 第4章「多死社会への心がまえ」でようやく、上記の私の設問(どう生きるか、どう死ぬか)への回答が少し出てくる。
  • どう生きるかについての具体的な提言は、富裕層の高齢者は投資などせずに寄付をすべき、今の若い世代は非常に貧乏であり、(富裕な)高齢者とつなぐ仕組み(上述の寄付)が必要ということだ。
  • どう死ぬかについて、五木は、「これからは訪れる死ではなく、進んで受け入れる死の時代へ入らざるを得ないだろう」とすごいことを言う。「周りに迷惑をかけず、滑稽な印象も悲劇的な印象も与えずに、淡々と自分で世を去っていくにはどうしたらいいか」と真面目だ。「30年ほど前から、自ら死を選んだ人たちのことを書こうと思って資料を集めてきた。…自死だけでなく、自然死の形をとった死の選択もある」とする。楢山節考が現代的装いをもって発生しているとも言う。死へののぞみ方についての、この本の中での唯一の提言だ。身が引き締まる。
  • 対談相手の釈住職は、寺の裏手で認知症高齢者のためのグループホームを運営していて成果を上げているらしい。古い民家をグループホームにして、バリアフリーにしないことで「暮らす能力」が低下しにくいと説く。なるほど。また、認知症の人と関わる第1原則は、「人前で恥をかかせない」ことだという。家人にも聞かせたい。人前でなくても優しくしてほしい。しかし、これらの有益な話は、何れも55歳の人の「下から目線」だ。70代1年生の私には参考にならない。
  • 宗教家の対談なので、宗教にまつわる話が多々出てくるが、具体的でないことにも当惑した。現代人の肌感覚時間(意味は不明)の短いことの問題点が縷々述べられた後、「人類史的に見て、肌感覚時間を延ばす最大の装置は宗教儀礼」だという。お経の時間が長く、意味が判らないので苦痛だが、それがいいらしい。「もともと儀礼は意味よりも様式に重点がある」と宗教家に言われると愕然とする。意味を伝える努力を殆どしないで、これでは開き直りではなかろうか。
  • 読後感を率直に言えば、下から目線と楢山往き志願者の井戸端会議だ。