アリゾナとミズーリ

 タイトルの米国の州名2つにハワイを加えると何になるか。グーグルで検索すると一発で「ハワイの真珠湾ツアー(アリゾナ記念館と戦艦ミズーリ号)」が出てくる。それぞれ、日米太平洋戦争の発端と結末を象徴する戦艦だ。これは日本語向けの検索だからと思い、言語を英語に変えて検索したが同じ話題が出てくる。
 私は9月下旬に、縁者の慶事でハワイに行った際に見学に行った。ワイキキのホテル内にあるJTBのオフィスで探すと日本語ツアーがある(やはり日本語がいい)。同行者を誘ったら、朝6:10集合の早さに怖じ気づいて誰も参加しない。私1人で出発。
 以下、1)アリゾナ記念館、2)戦艦ミズーリ、3)その他トピック(廊下側窓のホテル、TSAロックのトラブル)、4)参考資料について紹介する。本文は約5,000文字だが、写真(我ながら下手)の数が多いので、長くなった。ご容赦を。

1) アリゾナ記念館
 日米戦争の発端となった1941年12月8日(現地時間では7日)の真珠湾奇襲では、米軍側に艦船22隻の撃沈・大中破、死者2300名余等の被害が出た。中でも撃沈した戦艦アリゾナは1,177名の戦死者を出した。艦の損傷が甚だしかったため、引き揚げは行わず、1962年に、沈んだ艦の真上に慰霊施設としてアリゾナ記念館が建設された。
 昨2016年12月に、日本の首相としては初めて安倍首相が訪問したことで有名だ。
 写真はアリゾナ記念公園で、2枚目はアリゾナ記念館とミズーリ号が遠望できる。


 海上アリゾナ記念館に行くには、対岸のビジターセンターがあるこの記念公園から海軍のボート(150人乗り)に乗る。ビジターセンターは広い公園で、映画館と2つの資料博物館その他の記念設備がある。アリゾナ記念館へのボートに乗る前に、映画館で25分間の映画を観ることが必要だ。
 写真は連絡ボート。

以下若干の感想。

  • 映画館その他の説明が、客観的、中立的と感じた。映画の中で、日本が宣戦布告前にだまし討ちの攻撃をしたなどとは言っていないようだ(たまたま英語版を見ていた)、米国側の対応の不備(事前の予測不足、最初の攻撃も当初訓練と錯覚、等)について触れていることも多い。
  • 火曜日だったが見学客が多い。米国人に限らず、日本人その他の外国人も多い。各国語対応の説明ガイドが用意されているが7か国語に対応している。
  • 写真はアリゾナ記念館の中、2枚目はそこからみられるオイルの流出。沈没した水中の艦からオイルの流出がいまだに続いているのも、改めて眼前で見るとショックだ。



2) 戦艦ミズーリ
 戦艦ミズーリを見学するのは私としては実は2回目だ。たまたまちょうど30年前の1987年7月に米国サンフランシスコ港で2日間一般公開された。当時、同地に赴任していた私は見学に行った。当時社内誌に書いた雑文(短い)を4)に載せたので参照ありたい。
 簡単に戦艦ミズーリの歴史を紹介する。1944年1月に進水式後同年6月から就役。日米戦役に参加。日本の降伏文書の署名は、東京湾に停泊したミズーリ号の艦上で1945年9月に行われた。その後1951年からの朝鮮戦争に参加、1955年に一旦退役。1986年に湾岸危機に就役するために復役して湾岸戦争に。1992年に再度退役、1999年にハワイの真珠湾で記念艦に(現状)。
 満載排水量5.8万トン*1、全長270m、乗員数2,534名(太平洋戦争時)。最後に製造され、最後に退役した戦艦として知られる。ここで戦艦(battleship)とは、大口径の大砲と厚い装甲を有する大型軍艦で、かつては海軍力の中心だった。20世紀後半には航空母艦にその位置を譲って、今では就役しているものはない。1955年に一旦退役した際にはmothball(文字通りでは「蛾丸」、防虫剤)と言われる方法で保存されていた。これは、動力部や回転部を長期間油漬けにして、再度動かせるようにしておく方法だ。かつてサンフランシスコ北方の奥まった湾に何隻もmothballされている艦船が、高速道路から遠望された。現地米国人スタッフから教えられるまま、日本からの旅行者に得意げに説明していたものだ。現在は、記念艦として一般展示されていて動力部等は錆びるままだから、再就役は不可能とのこと。最近のコミックにはミズーリの復活話が登場しているとの質問があったが、あり得ないとの回答。
 30年前の見学と今回との違いで感じたことを幾つか述べる。

  • 30年前は就航している艦船の一時的公開だから、公開区域は、降伏文書調印の場所や砲塔の外観など限られていた。展示内容も基本的に間に合わせのパネルなどだ(それでも十分興味深かったが)。説明員は殆どいなかったと思う。
  • 今回は退役して一般展示用に改造したから、本格的な展示だ。艦内の船員の寝台、食堂など広い区画に見学客用の歩行通路が設定されている。展示パネルや説明員の話も充実していて面白い(日本語の説明員もいる)。
  • 降伏文書関係で面白かった展示は、1853年のペリー提督の黒船来航時の星条旗(31州の星)が調印式時に用意されたとのことで、展示されていた(この展示は複製品だったかも知れない)。日米間の長い絆を示したかったのではないかとの説明であった(日本向けでなく、他の連合国に対して示したかったのであろうと思料)。場所を東京湾にしたのも黒船来航にちなませていたのかも知れないとのこと。

写真は、調印場所である右舷、そこの床に設置されている調印場所を示す丸い銘板、31星の星条旗だ。


  • 降伏文書は、連合軍総司令官分、連合国9か国分と日本分と計11部作られたが、日本用の分だけ署名国の国名(タイプ)と署名欄がずれていたとのことだ。原因は6番目の署名者のカナダが雑談(?)していて署名欄を間違え、その後の署名国が全てずれたからだ。日本側代表団はこのような欠陥文書を持ち帰る訳に行かないとごねたが、下船した代表もおり、再署名は不可能。知恵者がいて国名のタイプ部分をイニシャルで修正したとのことだ(誰のイニシャルだったのだろう)。原本は日本の外交史料館(麻布台)の保管庫に保管されているとのことだ。この原本のコピーがパネルで展示されていた。写真は、6か国目以降の国名が汚く訂正された日本用のコピーと、多分米国用の正規版のコピーだ。*2


  • 署名は、各国代表が順番に11枚もの文書に署名していくが、その全体を上から撮った写真がパネルとしてあった。随分ごちゃごちゃしていたとの感じだ。

  • 降伏文書以外のパネルで興味深かったのは、1945年4月に日本のゼロ戦特攻機が低空で進入して右舷に衝突して大破したことを取り上げていたことだ。艦長はこの操縦員を、名誉を持って自らの任務を全うしたとして海軍式の水葬で弔うことを決定した。乗組員からは反対もあったが、艦長の命により翌日水葬が執り行われた。海軍葬では星条旗で遺体を包むが、日本人には不適当ということで、乗組員が徹夜で旭日旗を見様見真似で縫い上げたとのことだ。

 この旭日旗の話とか、前述の31星旗の話とか、米国人は儀式をできるだけ華やかに行うのが好きなのだと感じた。特に約100年前の国旗をわざわざ用意するなど凝りすぎではないか。日本が負けることを見込み、更に調印式をミズーリ号上で行おうと余程前から準備し、古い国旗も用意していたとしか思えない。

3) その他のトピック
真珠湾とは関係ないが、今回のハワイ旅行で面白かったことを2点紹介する。
a) 廊下側に窓のあるホテル
 今回のハワイでの慶事に出席してくれた親戚の独身男性が泊まったホテル(一応ワイキキ)の部屋は、廊下側に窓があると言って写真をくれた。すなわち外光を取れる外側に窓が無いので、廊下側に窓を開け採光しているのだそうだ。日本のカプセルホテルのようなものだが、大きなベッドがあって立派とのこと。窓の内側からカーテンが引けるので、外から覗けない。
 部屋代は幾らかと聞いたら、フライトと一緒の料金なので判らないとのことだ。このようなホテルを好まない人は注意したらいい。

b) TSAロックの破損
 TSA(Transportation Security Administration)ロックとは、2001年の9.11の事件以降強化された、空港での保安検査に対応したロックだ。米国運輸保安庁は電磁的検査等によって米国に入出する荷物の検査を行うが、一般に疑わしきものについては開封して目視検査を実施できる。そのため一切施錠せずに荷物を預けることが求められている。
 ただし、TSAロック機能が装備された荷物・錠前等は、持ち主が施錠していても、運輸保安庁係官が専用の合鍵を用いて、随意開錠し検査することができる。そのため、航空機への預け入れ時にも、施錠して渡すことができる。
 前置きは以上で、今回の話題は半月ほど前に購入したTSAロック付きスーツケースだ。羽田空港から自宅に帰って開けようとしたところ、2個付いているロックのうち1個が開かない。施錠して預けたものが検査の際に開けられたことは、中身の包装用ビニールが側面から覗いていることからも明らかだ。
 このトラブルは割にあるようで、主要な北アメリカの航空会社は、TSAロックを含む全ての施錠を「しない」よう強く推奨していると」のことだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/TSA%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF 
 全く困った話で、スーツケースがずっと開かないと大変だ。一応こじ開けたが、また閉めると開かない。壊れている。旅行保険の携行品保険で対応できるようなので、保険会社に連絡を取った。保険約款に「空港などの安全確認検査での錠の破損」も対象と明記してあるので大丈夫とのことだ。

4) (参考) 1987年のサンフランシスコ港でのミズーリ号見学記(社内誌に寄稿)
「戦艦ミズーリ号」 在サンフランシスコ 荻布真十郎
 「ミズーリ号がサンフランシスコ港へ……」 通勤中のカーラジオのニュースがこういうことを言ったようだ。ミズーリ号、はて、どこかで聞いたような。耳をそばだてる。「歴史的……、戦艦……、日本……、7月4、5日に一般公開……」 思い出した。太平洋戦争の降伏文書の署名は、東京湾に停泊したミズーリ号の甲板で行われた。傲然と立っている米軍司令官の前で重光葵外相が1人机に座らせられて署名している有名な写真が想い出される。
 あれは42年前の9月2日(後日の調べ)。その戦艦がまだ動いているとは。胸が騒ぐ。7月4日(独立記念日)に見に行くことを決心。ついでに新聞記事を調べて見る。
 同艦の今回のサンフランシスコへの寄港に伴うトピックが2つある。第1は、米艦スターク号がイラクから撃沈されたことが端緒となったレーガン(大統領)のペルシャ湾防衛構想が本決りとなれば、ミズーリ号が7月中にもペルシャ湾に派遣されるとのことで注目を集めている。
 第2は、ミズーリ号の母港を2年後にもサンフランシスコ港に移す計画があり、賛否両論がかまびすしい。賛成論は雇用創出(6,814人との試算)等の経済効果。ミズーリ艦隊は、計11隻からなり、乗員は計5,863名と巨大なもの。
 反対論は、住宅不足、交通渋滞等環境悪化への反対から軍備拡張反対などが普通のもの。変った反対論は、海軍がゲイを「恐喝に屈しやすい」としてミズーリ号母港関連業務から排除する方針を明らかにしたことに始まる。次期市長選に立候補を予定している主要な5人のうち2人が、ゲイへの差別に反対との立場から母港問題に反対だ。
 さて当日、賢明にも混雑を予見した妻が子供を連れて行くのに反対したので1人で出発。駐車場を見つけて長い行列に並び始めるまでに30分。待つ人の中には相当の年配の人もいることがミズーリ号の歴史を語っている。並び始めてから3時間で艦上へ。大きい。資料によれば、排水量58,000トン、長さ266メートル、速さ30ノット以上。
 問題の降伏文書の署名が行われた甲板の床には銘板が埋め込まれ、横の壁には降伏文書と調印式(署名式)の写真が掲示されている。その前には見学の米国人が滞留していて行列が進まない。昨今の日米貿易摩擦への苛立ちから、再び日本が降伏する夢を見ている米国人がいるのでは。
 米国人の関心とは違うであろう感慨で私も降伏文書(Instrument of Surrender)を一読した。主文は「ポツダム宣言を受諾する」で、これが降伏のことかと改めて納得。日本側の署名者は重光葵外相と梅津美治郎参謀総長。英文文書に漢字で署名。持ち慣れないペンで横書きのためか、緊張のためか、船の揺れのためか多少金釘流に見える。連合国側が9か国も署名していることも初めて知った(米、中、英、ソ、豪、仏、加、蘭、NZ)。このため、全員が座れる大きな机が艦上に無く、署名者が順に机に座って署名したものと思い至った。重光外相が皆の前で屈辱的に1人机に座らせられて署名したという、私の昔からのイメージは誤解だったようだ。
 ミズーリ号訪問は、私の小さな戦後に一区切りをつけてくれた。米国人の関心も高いため、複雑な気持ながらも、米国人と共有している歴史があるという実感を初めて味わうことができた。

*1:日本の戦艦大和と武蔵は7.2万トンで更に大きい。

*2:日本版は麻布台の外交史料館のHPにもある、拡大するとその事情が判る。http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000094983.pdf