八百長相撲

 2月に入ってから、大相撲の八百長問題がかまびすしい。昨年の力士の間の野球賭博事件を捜査中の警視庁が、力士の携帯電話のメールの記録を見て発見し、八百長自体は刑事罰に問えないが問題が大きいとして、文部科学省等に連絡したことから騒ぎになったらしい。
 問題の視点はいろいろあって、相撲協会公益法人の認可問題なども話題になっている。私は実は、本件にはあまり関心が無かったが、あるコラムを読んだのをきっかけとして少し考えた。本稿では、勝負師魂、サンデル教授の正義、司法の暗愚の観点から私見を述べたい。
1) 米長哲学
 きっかけは、日経新聞の2月8日の春秋欄の八百長相撲に関するコラムだ。
http://www.nikkei.com/news/editorial/article/g=96958A96889DE0E1E2E3E5E3E5E2E2EAE2E0E0E2E3E39F9FEAE2E2E2;n=96948D819A938D96E08D8D8D8D8D
 将棋の世界で流布する「米長哲学」というものがある。「自分には勝ち負けに意味のない消化試合でも相手にとっては大一番のときこそ、全力で勝ちにいけ」という米長邦雄日本将棋連盟会長の教えだそうだ。私は、この言葉を聞いてびっくりした。それまでは、私は、八百長相撲の件については、番付を維持するための星の遣り取りをする力士間の互助会的な仕組が根源と考えていた。同感はしないが、こういうことがあり得る世界があるだろう、しかし相撲に関心の無い自分には関係の無いことだ、程度にしか思っていなかった。
 しかし、将棋の世界では、それが許されないという理念を若い棋士の時代から身に付けさせているらしい。「心にひそむ邪念、ひるみを振り払うことが勝負師たる者の厳しさであり誇りなのだ」と「春秋」のコラムニストは言う。
 ちなみに、Wikipediaでは、この米長哲学の具体例を次のように紹介している(「米長邦雄」の項)。

第24期順位戦(1969年度)は、(米長は)中原誠と同時にB級1組に昇級して迎えた。A級昇級争いは、12回戦まで終了した残り1局の時点で、内藤國雄が11勝1敗でぶっちぎりのトップ。もう1人の昇級枠を58歳の大野源一と22歳の中原誠が、ともに9勝3敗で争っていた(順位が上の大野のほうが中原より有利)。そして、大野にとって「勝てば昇級」の最終13回戦の相手は米長であった。その米長自身は7勝5敗で昇級にも降級にも絡んでいなかった。ところが、その一局で米長は、通常タイトル戦でしか着用しない羽織袴の姿で大野の前に現れ、手加減しない姿勢をあらわにした。結果は、米長と中原がともに勝ったことにより大野はA級復帰を逃し、中原は米長の‘アシスト’によりA級に昇級した。

 誠に厳しい。これが勝負師の世界なら、相撲界は、本場所開催を取りやめ、天皇杯等も返上すべきだろう。相撲協会の従来からの対応は、基本的におかしかったのではと思うようになった。
2) コミュニタリアンの共通善(サンデル教授)
 2010年9月の弊ブログ「ハーバード白熱教室」(id:oginos:20100927)で紹介したサンデル教授の正義論では、彼の立場は、コミュニタリアン(美徳の涵養と共通善についてともに判断することをコミュニティの目的とする)とされている。正義には、あらかじめ定められた基準がある訳でなく、コミュニティ内で議論し判断していくもの(コミュニテイでの共通善)としている。これに対し、私はそのブログで、若干の疑問を述べた。
 ブログでは詳細に書かなかったが、その時の疑問をここで述べると、彼の本では、犯罪者である兄をかばった高名大学学長と、一方犯罪者の兄を告発した人の事例を並べて紹介している。サンデルは、他の事例と同じく、事例と問題点を提示するだけで、明確な判断を示していないが、文脈上私の理解では、前者(コミュニティへの忠誠と連帯)を擁護している(少なくとも考慮すべき重要な美徳としている)。また、テレビで見た、(東大ではない)ハーバード大学での講義では、同じ寮の友人がカンニング等の不正をした場合、告発すべきかとの教授の設問と学生の意見を紹介している。多くの学生は、仲間だからかばうと発言していたが、私の理解では、サンデルは肯定的に評価している(これはテレビで見た記憶だけなので定かには覚えていない)。
 このような事例に対し、明確な判断基準を示さず、コミュニティでの議論により共通善とされれば、正義となることに、私は相当な違和感を覚えた。
 サンデル教授の考えでは、日本での互助会的な八百長相撲(例えば、十両から幕下への陥落を防ぐために助け合う、など)を否認することはできないのではないか。いわんや、八百長自体では、日本の刑法では罰せられないらしい。私は、コミュニタリアンの正義には少し不安定なところがあるのではないかと思う。
3) 司法の暗愚
 週刊新潮2月17日号の記事「八百長裁判 巨額賠償で週刊誌を萎縮させた司法の暗愚」は、相撲協会の詭弁を最高裁までが是認したと糾弾している。ちなみに、この週刊誌を買ったのは、この記事があったからだ。2007年に週刊現代が連載した八百長相撲の糾弾に対し、名誉毀損として相撲協会は6億円の損害賠償などを求める訴訟を起こした。結果は、1審、2審と週刊誌側が敗訴した後、昨年10月の最高裁で、3960万円の賠償と記事の取消しを求める判決が確定したとのこと。八百長立証について物証に拘りすぎて完璧を求めた判決で、言論封殺的だと非難する識者が多いらしい。また、八百長相撲に対する追求は週刊誌だけが行っていて、大新聞はかねて静観しており、判決後は、大新聞は揃って「(この週刊誌)記者の取材は杜撰」と切って捨てたとも書かれている。
 私は、最近の検察庁の証拠改ざんも言語道断だが、かねて日本の裁判では、裁判官の方がひどいと思ってきた*1。その意味で裁判員制度には大いに期待している*2
4) 余談
 相撲について現在は関心が無いが、小さい頃はよく遊んでいた。八百長問題と関係ないが、相撲というとしゃべりたいことがあるので余談を。
 相撲が国技かどうかは別にして、国民に人気があることは確かで、その理由の1つに、勝敗のルールが簡明なことがあると思う。小学の頃学校で相撲に興じていたが、長じて柔道やレスリングでは、手や膝をついても負けにはならないことを知り、その勝敗基準の不透明さに当惑と憤りを感じた。相撲では試合の95%以上が素人でも子供でも勝敗が判る。他の格闘技では、試合の半分以上が素人には勝敗の判定ができないと思う*3。これで立会いのタイミングが公正に透明化できれば、国際的なスポーツになり得るのにと思う。それにしても、何時見ても立会いのルールは判らない。ボクシングみたいに、両コーナーからゴングがなってスタートとできればいいが、それでは相撲と言えないのだろう。
 もう1つ八百長問題に関して言えば、相撲協会の理事長を力士からとすれば、八百長をやっていなかったとされる貴乃花しかいないので、貴乃花理事長が実現する可能性は高いと思う。しかし、貴乃花は、一族のごたごたを見ても推測されるように統率力は無く(かねての親方衆からの反感もあり)、同理事長下の相撲協会は、益々混迷していくと予想する。
以上

*1:ことなかれ主義の判決が多いと言われているが、詳細は省略

*2:問題があるとすれば、量刑まで裁判員に判断させていることだと思う。米国の陪審員のように、量刑は専門裁判官にということもあり得よう

*3:ボクシングのノックアウトの基準は簡明だが、そもそも相手を昏睡状態にすることを目的にするスポーツは危険だと思う