インド雑記(10) 写真集(ムンバイ編)

(ムンバイの概要)
 ムンバイは、市域人口は1,248万でインド最大の都市だ*1。1995年に旧「ボンベイ」から、現地語(マラーティー語)にもとづく現名称に変更された。
 デリーからムンバイに移っての第1印象は、建築物のイメージがコロニアル様式に見えることだ。コロニアル様式について触れる前に、ムンバイの歴史を簡単に説明する。
 ポルトガルは、1534年にこの地域の領主から7つの島を取得した(ポルトガル語で良港を意味する「ボン・バイア」と命名)。1661年、ポルトガル王家と英国王家との婚姻に伴い、これらは英国に譲渡された。その後英国はインド西海岸での拠点(東インド会社)をこのボンベイに移し、7つの島や湿地は埋め立てた。これ以後ボンベイは大発展する。
 1858年の英領インド帝国の成立までは、英国東インド会社がインドの運営に当っていて、カルカッタマドラスボンベイ(何れも旧名称)の3都市が拠点だった*2。1858年スタートの英領インド帝国の首都は東インド会社の3拠点のうちの1であるカルカッタで、それが1911年のデリー遷都まで続いた。
 ということで、デリーは1911年までは、英国軍に占領されることはあったが、植民地ということにはなっていなかった。「コロニアル様式」とは、「英国、スペイン、オランダ等の植民地で17世紀から18世紀にかけて盛行した建築・工芸様式。本国の様式を反映しながら各地の風土に見合って産み出された独自のスタイル」(マイペディア百科)という。デリーでは、土着のムガル帝国のスタイル(オールドデリー地区)、20世紀の現代建築(ニューデリー地区)が併置しているが、コロニアル様式は無かった訳だ。
 以下、ムンバイの観光地を紹介する。
1) インド門周辺
○ インド門 

 デリーにあるインド門はIndia Gate。ムンバイのこのインド門はGateway of India。インド皇帝としての英国王ジョージ5世夫妻の1911年の来印を記念して建立された(1924年完成)とのこと。英国王夫妻は、このボンベイの埠頭に上陸した後、デリーでの12月の公式式典に出席した(デリー遷都はこの時宣言)。この埠頭はインドへの入口ということで、Gateway となったのだろう。デリーのインド門は、前述したように第1次世界大戦で戦死したインド兵の慰霊碑だ。写真は、同行U氏と。
○ タージ・マハル・ホテル

 同ホテルは、インド最大のコンツェルン、タタ財閥の総帥が1903年に建設したもの。経緯があって、その総帥が昔あるムンバイのホテルに入ったところ、ヨーロッパ人専用として入場を拒まれた。これに憤って、欧州のホテルを見て最高水準のものを作ったとのことだ。2008年11月のムンバイ同時多発テロ(10件、計172-4人が死亡。イスラム過激派の犯行と言われる)で、このホテルも標的となり、屋根のドーム等が爆破された。現在は復元していた。
 このイスラム過激派の標的になった(偶々か)ホテルを作ったタタ一族は、宗教がパールシーであることで有名だ。パールシーは、イランのゾロアスター教(拝火教)が、8世紀に新興イスラム勢力に追われてインドに逃げてきたもの。パールシーはペルシャの意だ。パールシーの寺院は、プネで見に行ったので、そこで紹介する(大した話ではないが)。
2) チャトラパティ・シバージー・ターミナス(CST)駅
 英国人の設計で10年をかけて1887年に完成した鉄道駅。当初、時の英国女王(=インド皇帝)の名を冠してヴィクトリア・ターミナスとしていたが、1998年に現在の名称に改定した(長いので「CST」と言われることが多い)。*3 2004年に世界遺産となった威風堂々たるヴィクトリアン・ゴシックと呼ばれる様式の外観だ。現名称の由来のチャトラパティ・シバージー(1627-1680)は、当地で「マラータ王国」を作り、北部インドのムガル帝国に対抗した。ヒンドウー教を支柱とし、今でもムンバイ、プネのあるマハーラーシュトラ州で、ヒンドウーの英雄として人気が高い。ムンバイの国際空港もこの名を取っている。
 ガイドによれば、CST駅は、遠距離、郊外、近距離の3つに、駅舎、ホームが分れている。遠距離鉄道のホームは、いわゆるターミナル方式で、改札口が無く入ることができる。

 切符売り場や待合室のある駅舎は喧騒を極めている。次の動画は、ホームの列車から待合室にカメラを移して、その喧騒振りを撮ったものだ。

http://d.hatena.ne.jp/oginos/files/CST%E9%A7%85%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E9%A7%85%E6%A7%8B%E5%86%85.MOV?d=.mov
 外観は次のウェブページにもあるように堂々たるものだが、私の見た時は、外装工事のためか覆われていて、残念ながらその雄姿に接することはできなかった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Victoria_Terminus,_Mumbai.jpg
 それでも私なりにCST駅の外観を撮った動画が次だ。ゴシック様式の一端が読み取れるだろうか。仮設の建物や看板が前にあって、威風が感じられない。
http://d.hatena.ne.jp/oginos/files/CST%E9%A7%85%E5%A4%96%E8%A6%B3.MOV?d=.mov
3) ドービー・ガート

 屋外の大洗濯場で、観光ガイドにも掲載されている。洗濯は最下位カースト(シュードラ)か不可触賎民(カーストの枠外)の職業とされている。洗濯場の中に入るのは危険と観光ガイドに書いてあり、このように傍の陸橋の上から眺めるものらしい。この写真の右端に、ヨーロッパの観光客らしいのが同じように撮っているのが写っている。
4) 寺院
○ マハーラクシャミー寺院
 デリーではヒンドウー教の寺院に入る機会は無かったが、ここではあった。日本の観光ガイドにも載っている有名な寺院だ。ちなみにヒンドウー教の寺院はmandir と言う。イスラム教の寺院mosqueは英和辞書にも載っているが、mandirは私の辞書に出てないからそれほど有名ではないのだろうが、インドでの地名の案内にはよく使われている。*4

 寺院の中は撮影禁止で、入口でカメラを預けなければならない。それで寺院の前の道の写真しかないが、参拝する人が実に多い。写真の中央奥手の階段の上が寺院だ。ウェブでこの寺院に行った日本人のブログなどを見ると、どれも人が多くてびっくりしているから、何時も人が多いのだろう。寺院の印象は、小さくて地味な外観だ。出典は忘れたが、ヒンドウー教は寺院の建築様式が定まっていず、各家庭内にも祭壇があって、神への礼拝は建物を問わないらしい。
 狭い寺院の中に入ると行列していて、順番に祭壇にお参りする。祭壇には色彩豊かな神像(ここではラクシャミー女神)があり、色鮮やかな花や果物が捧げられている。この個々の神へのバクティ(人格的な親愛の情)とプージャー(供物)がヒンドウー教の特徴だとされる(世界の宗教を読む事典、講談社現代新書)。偶像崇拝を拝するイスラム教のモスクとは全く雰囲気が違うらしい。一般にヒンドウー教の神の絵や像、それに供物はカラフルなのが特徴で、日本の無色な仏像を見慣れていると少し驚く。
○ マウント・メリー教会

 各種の寺院を見学希望に挙げていたので、夜になったがこのキリスト教の教会に案内してくれた。名前は、山の上(少し高いだけだが)にある「聖マリア教会」と言う意味とのこと。夜とは言え暗すぎる下手な写真で申し訳ない。他国のキリスト教会と同じく、中はオープンだが、靴を脱がなくてはいけない。面倒なので開いている前後のドアから中を覗いた。他の国の普通のキリスト教会のように、長机と長椅子が並び、信者が三々五々祈っていた。
○ ハージアリー霊廟
 寺院ではないが、イスラム教の廟(墓)で珍しいものを見た。海で溺死したイスラム教の聖者の墓で、満潮になると砂州が海の中の一本道になるという。私が行った時はその状況に近かった。パニングした動画が次だ。
http://d.hatena.ne.jp/oginos/files/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC%E9%9C%8A%E5%BB%9F.MOV?d=.mov

*1:インドの都市の人口については、市域と近郊を含む都市圏との人口があることと都市圏の人口が資料により異なることで紛らわしい。例えば、「インド都市圏の人口」  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E5%9C%8F%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E3%81%AE%E9%A0%86%E4%BD%8D では、デリー都市圏2175万人、ムンバイ都市圏2075万人で、デリーの方が多い。市域では、wikiの各都市のページを見ると、ムンバイ1248万、デリー1100万でムンバイが多い。なお、wikiのこのデリーのページでは都市圏人口1631万、ムンバイのページでは2129万と記されている。不思議なのは、これらは何れも2011年のデータとされていること。

*2:余談ながら、私は昔、インド西部のボンベイに「東」インド会社の拠点があるのが不思議だった。wikiによれば、ここで「インド」とは、ヨーロッパ、地中海沿岸地方以外の地域を指していて、西インド(南北アメリカ)と東インド(東南アジア、日本も含む)とがある。

*3:地名の名称変更としては、1995年に前述のとおりボンベイがマラーティー語のムンバイに、1996年にマドラスタミル語のチェンナイに、2001年にカルカッタベンガル語コルカタになった。

*4:1/9の注。ジーニアス英和(第3版)とロングマン現代英英が入っている電子辞書で取りあえず調べて無かったのだが、その後いろいろの辞書を見るとmandirが掲載されている辞書もある。ジーニアス(第4版)、リーダーズには出ていた。