腎炎とネフローゼ

 知人の近親者に慢性腎炎の疑いがあるということを聞いた。話によく判らないことがあるし、かねて確かめたいと思っていた疑問もあるので、この機会に少し調べてみた。
 腎炎という病名の他にネフローゼという病名があるが、同じか違うのか、というのがかねての疑問だ。ネフローゼとは、元は独語のNephroseで、英語ではnephrosisないしnephrotic syndrome(ネフローゼ症候群)という。nephr-ないしnephro-という語幹は、ギリシャ語のnephro(腎臓)が語源である*1。-sisは病気の状態を示す接尾辞だから、nephrosisは腎臓病ないし腎炎を示すと推測するのが普通であろう。
 ところが、家にある古い「マイドクター家庭医学大事典」(講談社、第2版8刷、1998年)を見ると、腎臓病の章立ての中に、各種の腎炎とは別に「ネフローゼ症候群」と見出しが立っている。なぜ腎炎と日本語で言わないのか、腎炎とは別のものなら、なぜnephro(腎臓)-sisと一般の腎炎を思わせる語を使うのか、というのが私のかねての疑問だった。以下、1)ネフローゼについて説明し、その過程で勉強した2)クレアチニン・クリアランスについて、と3)感想を述べる。
1) ネフローゼとは
 図書館やAmazonで関連の書名を眺めていると、タイトルに「腎炎・ネフローゼ」の語が入っている本が幾つかある。ということで、腎炎とネフローゼは別の病気か、又は別の概念であると推測できる。結論から言うと、別の病気ではなく別の概念だ。
 ネフローゼとは、正確には「ネフローゼ症候群」といい、腎炎のうち、尿にタンパクが排泄されるものだ(1日当り3.5g以上などが基準)。本来、タンパクや赤血球は分子量が大きいため、腎臓の濾過機構の第1関門である糸球体*2では濾過されない。しかし、糸球体の毛細血管の血管壁が損なわれ小穴が開くことによりタンバクが漏れ出すのが尿タンパクだ。腎炎の症状には赤血球が尿に漏れ出すものもあり、血尿という。
(腎炎を英語で何というか)
 ネフローゼ症候群には、尿タンパクの症状を示す多くの腎炎がリストアップされている。英語ではネフローゼと腎炎をそれぞれどう言うのだろう。結論を述べると、ネフローゼは上述のとおり、nephrosisないしnephrotic syndrome、これに対し腎炎はnephritisで、誠に紛らわしい。nephritic syndromeという言葉もあり、日本語の腎炎症候群(このような症候群を掲げていない分類もある)に対応している。*3
 ちなみに日本語のネフローゼ母語の独語では、前述のNephroseに加え、Nephrotisches Syndromの語もWikipediaの見出しに出ていた(読んではいない)。腎炎は、Nephritisだ *4。英語も独語も、ネフローゼと腎炎との区別は紛らわしいように見える。
(腎臓病の分類)
 Wikipediaには、腎臓病という見出しは無い(諸説あるからか?)。本やウェブ上ではいろいろな分類が行われている。ここでは、中立的なものと思われるNPO法人「腎臓サポート協会」のHPで掲げられている分類を紹介する。病名(症候群名)だけで説明は省略する。
http://www.kidneydirections.ne.jp/kidney_disease/what_kind.html

  • 慢性腎炎 (慢性糸球体腎炎) この中に含まれる病気は、微小変化群、IgA腎症、膜性増殖性糸球体腎炎、膜性腎症、巣状糸球体硬化症 など
  • 糖尿病性腎症 (糖尿病に由来する)
  • 腎硬化症(高血圧や動脈硬化症に由来する腎臓病)
  • 多発性嚢胞腎 (遺伝性)
  • このほか、「急性腎炎」「腎盂腎炎(じんうじんえん)」など。
  • ネフローゼ症候群 (何らかの原因で腎臓に障害が起こることにより、たんぱく質が尿中へ排出されてしまう「状態」をさす。単一の病気をさす言葉ではない)

 この説明でネフローゼの位置付けは明らかなようだが、多くの一般向け解説では、単なる「状態」ではなく、他の腎炎と並ぶ病気ないし病気の症候群のような形で説明されている。例えばある本では大きな3区分として、急性腎炎症候群、慢性腎炎症候群、ネフローゼ症候群が挙げられている。それぞれに分類される具体的な病名では相当重複しているし、前2者の中にも尿タンパクを排出するものがある。また、2002年から米国で提唱されているCKD(Chronic Kidney Syndrome 慢性腎臓病)の概念も紹介され、分類論としては相当混乱しているようだ。私はむしろnephroという腎炎と紛らわしい語幹を持つ言葉を日本語の他の病名と並べていることに違和感を感じていた次第だ。
(ネフローゼの歴史)
 英語のnephrosis(ネフローゼ)とnephritis(腎炎)は何時登場したのだろうか。私のスマホにたまたまインストールしてあるMerriam-Webster Dictionaryには、各単語の最後にFirst useとしてその語の初出年というのが記されている。出典などの説明は無い。上記の語のFirst use年を列記しよう。古い順に、
kidney腎臓 (14世紀)、nephritis腎炎 (1580)、renal腎臓の (1656)、nephrology腎臓(病)学 (1842)、nephrosisネフローゼ (1916)、nephronネフロン(脚注2参照) (1932)、nephrotic syndromeネフローゼ症候群 (1939)
 この約100年前の1916年に登場したnephrosisとは何だったのか。ウェブを探したら次が出てきた。
http://wikimatome.com/wiki/%E3%83%8D%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%BC
 これによれば、1905年に F. von ミュラーという人がネフローゼという述語を作ったらしい。驚くべきことに、彼は、腎臓疾患を炎症性疾患と尿細管の変性疾患に大別し,後者をネフローゼと呼んだということだ。現在では、ネフローゼの多く(多分殆ど)が糸球体の機能障害(多分炎症)によるもので、尿細管は関係ないとされている。
 その後ネフローゼの定義は修正、整備されて(日本では1970年代)、現在に至っているらしい。しかし、何故尿たんぱくの症状を示すのに、腎炎一般を連想させるネフローゼという語を何時までも用いているのか私には理解できない。「尿タンパク症候群」とでも命名すれば、私のような誤解も避けられたのにと思う。
2) クレアチニン・クリアランス
 ネフローゼとは別の話題だが、腎炎関係で私がなかなか理解できなかった術語の1つとして、「クレアチニン・クリアランス」を説明する。これは、腎臓の糸球体の機能の血液中老廃物を尿中に排泄する能力を示す「GFR(Glomerular Filteration Rate 糸球体濾過値)」の代替値の代表的なものである。GFRは、前述のCKD(慢性腎臓病)のステージ判定の指標としても使われている。このクレアチニン・クリアランスは次のように算出される。

クレアチニン・クリアランスF(mL/分)
=尿中クレアチニン濃度Cu(mg/dL)×24時間尿量U(mL)
 /血中クレアチニン濃度Cb(mg/dL)×1440分 *5

 クレアチニンとは、筋肉内で作られる廃棄物で尿中に排泄される。クリアランスとは、広辞苑によれば、「腎臓による血中特定物質の尿への排泄能」とある。血中クレアチニン濃度は、腎機能の低下により尿中への排泄量が少なくなるに伴って高くなるので、腎臓病の重要な検査値の一つでもある。このことから、クレアチニン・クリアランスとは、クレアチニンの排泄機能を測定しているものと思ってしまう(私だけか)。
 しかし、その理解が間違いと気付くのに、私は数日かかった。糸球体では、1日当り約150-200L*6血漿が濾過されるが(原尿。脚注2参照)、糸球体に続く尿細管でおよそ99%が再吸収される。従って、最終的に尿として外に排出されるのは1.5-2.0L程度だ(もちろん、年齢、病状等により大きく異なる)。これを踏まえ、次のとおり、分当りのクレアチニンの移動量で考えてみる。

 前述の式のとおり、血中クレアチニン濃度をCb、尿中クレアチニン濃度をCuとするとともに、新しく糸球体濾過量(血漿が通過する量)をS mL/分と置く。糸球体を通過するクレアチニンの量は1分間にS Cb、尿中のクレアチニンの増加量は1分間にU’ Cuだ(ここで、U’=U/1440で、1分当り尿排出量。U’とSとの比は前述のとおり、健常人で1%のオーダー)。糸球体を出た後のクレアチニンの再吸収は無い(又は極めて小さい)ので、この2つが等しくなる。
S Cb=U’ Cu 変形して→ S=U’ Cu/Cb

 すなわち、S(意味上、GFRに相当)は、上述のクレアチニン・クリアランス値Fに一致する。GFRを測定するための指標的物質としては、尿細管での再吸収が無いことが必要で、クレアチニンの他にイヌリンなどが使われることもある。*7
 健常人ではGFRは100mL /分のオーダーであり、1日当りにすると、100mL×1440 =144L で、前述した1日当り原尿産生量150Lと一致する。CKDのステージ分類では、GFRが60未満だと慢性腎不全と診断(他の基準もある)され、10を下回ると透析治療も必要になると言われている。
 クレアチニン・クリアランスの測定には、24時間分の尿を溜めておくことが必要でなかなか手間がかかる。それで簡易換算法として、血中クレアチニン濃度を測定し(腎機能の低下に伴い上昇)、他の検査値も考慮してクレアチニン・クリアランスを求める推定式が考案されている。同じ血中クレアチニン濃度でも、前者は濾過量算出のための間接測定値、後者は腎機能低下の直接的指標なので、用いる意味が全く異なっている。
 まとめると、私がクレアチニン・クリアランスを理解できなかった要因は、a)クレアチニンのクリアランス(総排出のニュアンスがある)の語に惑わされた、b)血中クレアチニン濃度の上昇が腎機能低下の指標なので惑わされた、c)糸球体の全血液の濾過量の重要性がよく理解できていなかった、d)結局、式の意味が理解できなかった*8、ことにある。
 結局「クリアランス」の語が一番の問題ではないかと思う。どうしてもデパートのクリアランスセールの「一掃」を連想してしまう。
3) 感想
 腎炎というと私には苦い想い出がある。小学3年生の頃、自作の竹ひご飛行機を外で飛ばして遊んでいて帰宅したら熱っぽかった。医者に急性腎炎と言われて、その後3か月間全く学校に行けず家で寝かされていた。絶対安静と減塩醤油の不味さが記憶に残る。毎日脚部のむくみを押え、へこみ量が減らないのにめげていた。
 以後腎臓の方は全く問題ないが、1989年の人間ドックで血糖値が高いと言われ、以後四半世紀間、糖尿病の治療を受けている(本ブログでもA1c検査のことを紹介)。昔の腎炎と違い、糖尿病の方は殆ど症状が無い。そのせいか本も何冊か読んだが糖尿病の仕組がよく理解できない。
 腎炎の方はむくみとか尿量減少とか症状が割にはっきり出てくる。それなのに、本を読んでもウェブを見ても、病気の原因や分類がよく理解できない。少し古いが、椎貝達夫著「腎臓病の話」(岩波新書、2007年10月1刷)を読むと、原因がよく判らない、免疫複合体による炎症だが抗原が不明との記述が頻出する。正直な著者だといえばそれまでだが、病気の仕組というのはそういうものなのかも知れない。病名や分類に一部未整理なものがあるのは、今までの多くの医者の探求、試行錯誤の歴史の残差なのだろうと思う。

*1:ちなみに、腎臓は英語で普通kidneyだが語源不詳。nephr-はギリシャ語源で、形容詞のrenalはラテン語源。例えばadrenalは副腎を指すラテン語源の語だ。このようにギリシャ語とラテン語の語源の術語を多用するのは英語の医学用語では多いらしい。別の臓器では、例えば胃カメラのgastrocameraはギリシャ語源。

*2:糸球体とは、腎臓内にある毛細血管が毬状に集まった直径約0.2mmのもので、ここで血漿が濾過されて原尿となる。原尿はこの後尿細管を通って相当分人体に再吸収され、再吸収されなかった分が尿として排出される。糸球体から尿細管に続く各系統をネフロン(ネフローゼとは直接の関係は無さそう)といい、2個の腎臓で合せて約200万個の糸球体とネフロンがある。腎炎とは、殆どが糸球体の濾過機能が損なわれるものである。

*3:Wikipediaにはそれぞれのsyndromeの見出しがある。ざっと眺めたところ、日本語の病名の内容とは基本的な違いは無さそう。 http://en.wikipedia.org/wiki/Nephrotic_syndrome http://en.wikipedia.org/wiki/Nephritic_syndrome

*4:ゲルマン語源のNierenentzundung(ニーレンエントツュンドゥング、zuのuはウムラウト付き)という単語もある。ここで、Niereは腎臓で、Entzundungは炎症のこと

*5:更に体表面積を考慮して、1.73m²で割って補正する方式もあるが、本質的ではないので、本項では省略。

*6:およそ家庭の浴槽一杯の量だという。

*7:我が家の老犬が通う動物病院のHPに、犬のGFRを測定しますと出ていた。たまたま定期検診に行ったついでに、担当の獣医(腎臓が専門)にどんな検査をするのかと聞いてみた。イヌリンを使うとのこと(犬だからではない)。人間では24時間尿を採るらしいですねと聞いたら、イヌリンを注射してその後時間を置いて2回採血するとのことだ。尿は採らないのかと聞きたかったが、GFC検査をしないかと誘われると面倒なので辞めた。ちなみに人間の場合、イヌリン・クリアランスの方がクレアチニン・クリアランスより本当のGFR値に近いと言われているが、高価なようだ。

*8:改めて考えると、溶けている物質の量が同じであれば、濃度の比は、溶液の量の逆数に比例する。しかし、このようにして溶液の量を算出するのは、小学校の算数の問題以来考えたことがなかった。