第1次世界大戦勃発100周年

 今年は、1914年夏の第1次世界大戦の勃発からちょうど100周年だ。昨今の中東、北朝鮮ウクライナ等を巡る危機、中国の東アジア諸国への攻勢振りを見ていると、第3次世界大戦につながる可能性がないかと心配になる。同じ関心を持つ人が多いためか、書店に行くと、第1次世界大戦とタイトルに入った新書が3冊も出ていた。発行年月日を見ても狙いがよく判る。
別宮暖朗第一次世界大戦はなぜ始まったのか」 (文春新書、2014/7/20発行)
○ 木村靖二「第一次世界大戦」(ちくま新書、2014/7/7発行)
井上寿一第一次世界大戦と日本」 (講談社現代新書、2014/6/18発行)
 どれを買おうか迷い、全部買おうかとの思いも一瞬かすめたが、読書能力と時間と資金の制約がある。結局、自分の関心が第3次世界大戦の可能性如何であることを思い出し、ぴったりの題名の別宮著「…なぜ始まったのか」に落ち着いた。実質的な世界大戦につながった1914年8月4日のドイツのベルギー国境突破のあとは2ページしかない。第1ページは1848年のパリ2月革命から始まるから、まさに開戦までのストーリーだ。私にはなじみの少ない19世紀後半の欧州各国の話が続き、正直言うと読み辛かった。
 著者によれば、誰も世界大戦などを望んでいなかったと言う。以下、少し乱暴だが、個々の2国間関係にばらして、私なりの理解を述べて行きたい。
(サラエボ事件が発端)
 発端は、1914年6月28日にサラエボ市(現ボスニアヘルツェゴビナ共和国)で発生したオーストリアハンガリー帝国(以下、単に「オーストリア」という)の皇太子夫妻の暗殺事件だ。犯人は隣国セルビアの青年で、この暗殺を指導したセルビア国内の組織があったとされる。その後オーストリアは、7月23日にセルビアに対し、犯人処罰等を求める懲罰的な最後通牒を送付し、回答が不十分だとして7月28日に宣戦布告を行う。ここまでの2国間のトラブルが全ヨーロッパを巻き込む世界戦争に発展するのは、ロシアが同じスラブ民族であるセルビアを支持し、オーストリアを牽制する意味で7月31日に総動員令を発し、これに対しオーストリアの同盟国であるドイツが、8月1日に総動員令を発し、中立国のベルギーを侵犯してフランスを攻めたことから始まる。
 前述のとおり、幾つかの2国間関係にばらして簡単に説明する。
(オーストリアセルビア)
 オーストリアは、ロシアの内々の了解も得て、1908年に一方的にボスニアヘルツェゴビナを併合し、各国から批判されていた。同地域はセルビア人も多く、汎スラブ主義の立場に立つセルビアからの反感が強かった。サラエボの暗殺事件は、前述のとおりセルビア国内の組織が引き起こしたものであるが、オーストリアセルビアに対する最後通牒、宣戦布告は、これを契機にボスニアヘルツェゴビナの併合を確実にしたいと考えたものであった。オーストリアのベルヒトルト外相の個人的信念もあったようだ。従って、オーストリアの狙いは領土保全セルビアにしかなく、世界戦争などは考えてもいなかった。
(ロシアとオーストリア)
 ロシアは、オーストリアの対セルビア宣戦布告(7月28日)に対抗して、7月29日に部分的動員令をかけた(7月31日に総動員令に発展)。ただし、「オーストリアを本当に攻撃する意図ではなく(同じスラブ民族である)セルビアに対し保護者としての威厳を示したかっただけだった」という。いわんやドイツと闘うことになるとはあまり考えてなかった。
(ドイツとオーストリア)
 ドイツは、かねて後述の仏露二正面作戦を考えていて、その意味では一番責任があると考えていい。きっかけはオーストリアとの独墺同盟があるため、ロシアがオーストリアを攻めればロシアに対抗せざるを得ない。しかし、ドイツはバルカン半島(セルビアボスニアヘルツェゴビナ等)には関心が無く、またオーストリアが本当にセルビアに宣戦布告をするとは考えていなかった。ボスニア事件の処理も、犯人やセルビア内の支援組織の処罰をする旨のセルビアの回答書で終ると思っていた節があって、オーストリアの宣戦布告には驚いたらしい。
(ドイツの対仏露作戦)
 1891年に締結された露仏同盟(1894から軍事協定)は、政治体制が全く異なる国の間の同盟で、「外交の芸術」とも言われた。この同盟条約には秘密保持条項があり、ドイツは当座は知らなかった。ところがドイツはこの両国への対抗として露仏二正面作戦を準備していた。ドイツ軍参謀総長だったシュリーフェンが1905年ごろまでに作成し、「シュリーフェン作戦」と呼ばれる。ロシアの動員速度の遅さを前提として、先ず西方のフランスを最短時間で攻めるために中立国ベルギーを経由し、1-2か月間でフランスを屈服させた後、直ちに東方に転じてロシアを攻めるという作戦だ。
 すなわち、ロシアがオーストリア向けに総動員令をかけた7月31日の後、ドイツが8月1日に総動員令をかけ、8月4日にベルギーに攻め込んだのはこのシュリーフェン作戦に沿ったものだ。
(英国とドイツ)
 英国はドイツがベルギーに侵攻した8月4日にドイツに宣戦布告した。高校の教科書では、第1次世界大戦は、三国協商(英仏露)と三国同盟(独墺伊)との対立が原因だと学んだが、後述のとおり、それは正確ではない。英国は、ヨーロッパでは基本的に「光栄ある孤立」の政策を取っていて、ドイツに参戦する同盟上の義務は無かった。中立国ベルギーの侵犯ということでドイツに宣戦布告した。ドイツは英国が参戦するとは思っていなかったらしい。シュリーフェン作戦もそれは想定していなかった。
(世界大戦へ)
 ドイツは、8月2日にロシアに、8月3日にフランスに宣戦布告し、8月4日にベルギー国境を突破した。ベルギーへの侵犯を確認した英国が8月4日にドイツに宣戦布告し、この日が多くの国を巻き込んだ世界大戦が実質的に開始した日と言われる。
 参戦国は拡大し最終的には、同盟国側が4か国(ドイツ、オーストリアブルガリア、トルコ)、連合国側が28か国(うち実戦参加は米国、日本を含む16か国)となった。戦死者数は860万人。
(三国同盟三国協商とは)
 高校の教科書では、第1次世界大戦の背景は三国同盟(独墺伊)と三国協商(英仏露)との対立と学んだ記憶があるが、正確には違うようだ。独墺伊の三国同盟は確かに1882年に締結されているが、イタリーは1902年以降実質的に離れ、開戦時には中立を保ち、1915年には脱退した。
 三国協商の方は、三国間で締結された単一の条約ではなく、前述の露仏同盟(1891、1894から軍事協定)に加え、英仏協商(1904)、英露協商(1907)の3つを総称したものとされる。しかし、英仏、英露の協商は海外植民地と勢力圏の範囲を規定するもので軍事的色彩は無い。また英国はむしろヨーロッパでは「光栄ある孤立」の政策を取っていたとのことだ(これには諸説あり、ブリタニカ百科事典などは別の見方)。ドイツにとっては対仏露戦略が最大の関心であり、日英同盟(1902)もロシアの兵力の東方への分散を図るためのドイツの謀略によるものとされる。従って、ドイツは英国が参戦することを予定してなかったという。
(まとめ)
 まとめると、どの国も大戦になるとは考えていなかったし、望んでもいなかった。開戦に積極的だったのはオーストリアのベルヒトルト外相だけで、それもセルビアを相手にしたちっぽけな戦争しか考えていなかった。当初に宣戦布告した他の国についていうと、ロシアはスラブ民族セルビアへの義理立ての総動員令、ドイツは同盟国オーストリアに対するロシアの総動員令に対抗してのかねてのシュリーフェン計画の発動によるベルギー経由のフランスへの侵攻、英国は中立国ベルギーへの侵犯への対抗ということだ。
 これを評して、「夢遊病者たち」と呼んだ人がいる。孫引きだが、英国ケンブリッジ大学のクリストファー・クラーク教授の近年の著書の題名で、「当時の欧州各国の指導者たちは、夢遊病者のように自分たちが何に向っているかを理解することなしに、開戦に至った」という*1。最後まで本当に開戦するとは信じられず、避戦の努力が続けられていた。驚くことに8月1日になっても、ロシア皇帝ニコライ2世とドイツ皇帝ウィルヘルム2世との間で打開の可能性を探る最後の電報が交わされていたという。
 ただ、軍人は別で、部隊の動員速度の遅早が勝敗を決するとの考え*2に基づき、動員令を早め、早急に現地に兵士を配置したいとの思いがある。往々それは一旦動き出すと皇帝でさえ止められなくなる。しかし、軍人が全て世界大戦を考えていた訳ではなかったろう。
 シュリーフェン作戦について注記すると、スパイにより漏洩されていて、ドイツ軍が最初にフランスに入ることはヨーロッパの軍事界では常識とされていたという。ドイツも知っていたが、何故かそれほど問題にしていなかったらしい。しかし、開戦すると、フランスに侵入したドイツ軍は側面から攻められ、シュリーフェン作戦は失敗した。
(感想)
 私が感じた現代へのインプリケーションを幾つか述べる。
a) 集団的安全保障の危うさ
 同盟、協商等の集団安全保障を目的とする条約により、また義理立て等で大国が次々と参戦している。これらが無ければ世界大戦には発展しなかったと思う。
 現代の安倍首相は、本年5月の「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」報告の中から「集団的安全保障」は否定し、「集団的自衛権」だけに留まっているように見える。しかし、各国、特に東南アジア各国に対し、中国の脅威を強調しているのは、「集団的安全保障」の理念からのように私には思える。
b) 小国の悲哀
 セルビアはロシアの助けがなければオーストリアに攻められ、ベルギーは英国の助けが無ければドイツのされるままだった。このことは、a)の集団的安全保障と裏腹の関係で悩ましい。しかし、このセルビア、ベルギーについて言えば、条約により助けられた訳ではない。
c) 軍事作戦の硬直性
 一旦動員令が発せられ、動員規模が自動的に拡大していくとその修正は容易でない。機動的、弾力的な軍事作戦を行うには、あらかじめ種々の事態を想定した複数の作戦(シュリーフェン作戦では、英国の参戦は想定していなかった)の立案と実際への対処が必要と思える。しかし、作戦立案自体をタブーと考えやすい日本ではちゃんと行われているのだろうか。
d) 国の方針の不在
 多くの国で、国の方針があらかじめ決定し、共有されていないことだ。詳細は省略するが、各国の皇帝、国王の気まぐれ、政治家、官僚の狭量、保身などがあり、最後(世界大戦)にまで行ってから誤りに気付く。著者(別宮)は、特にドイツに厳しく、(国の)方針不在は、帝政ドイツと昭和日本の共通の問題だと指摘する。
 ところで、冒頭の疑問、第3次大戦はあり得るか? 現代世界で頻発する各地域の紛争を見ると、人類の知恵は100年前から何が進歩したのか判らない。100年前にも避けられるチャンスは何回かあった。現代では? 避けられるかもしれないとしか言えない。

*1:2014/4/16付け日経新聞 「第1次大戦前 不吉な相似」中西寛 京都大学教授

*2:第1次世界大戦は部隊の動員に鉄道が本格的に利用された最初の戦争だとも言われる。ロシアの動員速度の遅さをからかった「ロシアでは将軍が命令し、鉄道が決定する」との言葉がある。