踰矩(ゆく)

 2016年の新年に当り、ヘッダーに述べたとおり、弊ブログのタイトルを変えることとした。論語の「矩を踰えず(のりをこえず)」をもじり、「踰矩(ゆく)」ブログに変える。以下、1)変更の趣旨説明、2)変更日がなぜ誕生日でなく正月か、3)70歳以前の孔子はどうだったか、4)「踰矩」の具体的候補について述べる。
1) タイトル変更の趣旨説明
 契機は、本2016年7月に私が70歳になるからだ。今までも述べてきたと重複するが、孔子論語によれば、40歳の不惑、50歳の知命(天命を知る)に次いで、60歳は「耳順(みみしたがう。じじゅん)」、70歳は「心の欲するところに従いて矩(のり)を踰(こ)えず(七十而從心所欲、不踰矩)」と言う。60歳になって、それまでと違い、人の話を素直に聞けるようになった、70歳になると、心のままに行動しても、社会的、倫理的規範を外れることは無くなったとかの意味のようだ。
 私は、孔子と違い、若い時からサラリーマンとしてずっと人の言うことを従順に聞き、社会の規範やマナーに外れないように生きてきた。十分だ。それで、10年前60歳になった時、これからは逆に、「耳不順(みみしたがわず)」で行きたいと考えた。本年夏に満70歳となるが、規範を外れ、心の欲する所に従った生き方に憧れている。
 このような次第で、70歳を迎える私の年齢を誤解なく表す(耳不順だと60代と思われるかも)とともに、規範を外れた生き方への憧れを示すために、タイトルを変えることとした。今までの「耳不順ブログ」にもそれなりに愛着があり、また、継承関係を示す意味で当面「踰矩ブログ(耳不順を改め)」とかっこを付ける。
 本ブログの方針については、2010年10月3日(id:oginos:20101003)の記事で説明したが、改めて述べると、「他人が読んで面白いと思ってくれる可能性のあるものを目指す」ことだ。そのポイントとして3つ挙げた。
a) 私を知らない「他人」には関心が無い自分の身の回りのことは、原則として書かない。
b) 「面白い」とは、知的に面白いとの意であるが、本当は私が面白いことであり、視点は偏っている。学術的水準の高いことは書けないが、少しでもinformativeと感じてもらえることを提供できるよう努めたい。
c) 「可能性のある」というのは、多くの人ではなく、何人かからでも評価してもらえる可能性があればいいという意味である。
その後、a)の身辺雑事は書かないということに関しては、近年ネタ切れ傾向なので、少し緩めることとした(2015年8月31日の記事参照 id:oginos:20150831)。

2) 変更日がなぜ誕生日でなく正月か
 先ず、満70歳の誕生日(2016年7月)ではなく、何故正月にタイトルを変更するのかという、どうでもいいことから説明する。
 孔子の時代の年齢の数え方は、「数え年」に違いない。すなわち、毎年正月に全員一斉に1歳ずつ歳を取る仕組みだ。これは太陰太陽暦(旧暦)だと、何年かに1回閏(うるう)月を入れなければいけないこと(19年に7度の閏月を挿入)から、各1年の長さは、平年でほぼ354日(29.5日×12月)、うるう年で383日ないし384日だ。これでは旧暦の誕生日が来ても、生後から正確に丸何年経ったという満年齢の数え方の醍醐味は判らない。また、ほぼ3年に1回ある閏月に生まれた人は誕生日がなかなか来ない。すなわち、満年齢は太陽暦の産物だ*1太陽暦でも閏日があるが、4年間に1日ということで、例外的な処理を行っても誤差は少ない。
(東アジアの太陽暦)
 太陽暦は、西洋ではエジプトに始まり、ローマのシーザーが紀元前45年に導入し(1年=365.25日)、1582年にグレゴリオ暦となった(1年=365.2425日*2 )。東アジアでは、永く太陰太陽暦(旧暦)で、日本は、1873年1月からグレゴリオ暦(新暦)に改暦した。
 朝鮮半島では1896年に、中国では1912年(中華民国成立時)にグレゴリオ暦に改暦されたとのことだが、旧暦(太陰太陽暦)は、今でも使われている。中国、韓国が旧暦の正月(中国では春節)を大々的に祝うのは有名だ。他のアジア諸国もほぼ同様な事情にあり、イスラム諸国は完全な太陰暦(ヒジュラ暦。閏月を置かない)だが、詳細は省略する。
(年齢の数え方)
 年齢の数え方は、旧暦では数え年だったため、明治の改暦以降満年齢が推奨されたが、一般には数え年が使われ続けた。1950年1月施行の「年齢のとなえ方に関する法律」により、満年齢に一本化が強く推奨され、一般に普及した*3。韓国では、今でも数え年が正式とのことで、中国も公式には満年齢だが数え年も多いとのことだ。数え年での加算の時点は、中国では春節(旧暦)の1月1日、韓国と日本では新暦の1月1日だ。
 ということで、孔子時代の年齢の数え方にならい、誕生日でなく、新年正月に改めることとした。ただ厳密にいうと、a)正しくは、本年は数え年71歳である、b)中国式正月は旧暦の春節*4になるが、本年の春節は2016年2月8日である、という問題があって、気になる人は気になろう。アバウトな話だが、正月とした。正月に心を一新するのも悪くないという気持になってきた。
3) 70歳以前の孔子
 「70にして心の欲するところに従いて矩を踰えず(七十而從心所欲、不踰矩)」と言った孔子の70歳以前はどうだったのだろう、というのがかねての私の疑問だった。考えられるのは、
a) 心の欲する所に従い矩を踰えていた(從心所欲踰矩)のか、
b) 心の欲する所に従わず矩を踰えず(不從心所欲不踰矩)だったのか、
c) 心の欲せざるところに従い矩を踰えず(從心所不欲不踰矩)だったのか。
b)とc)は「不踰矩」という結果は同じだが、b)は不踰矩が大前提で、心の欲する所が無視されている、c)は心の欲する所とは別の規範に従っているということだ。
 そこで、恥かしながら今になって、論語を読んでみることとした。
○ 齋藤孝著「現代語訳 論語」(ちくま新書Kindle版2010/12)
 数年前までは、原文が載ってない現代語訳版を買おうなどとは考えなかっただろうが、まあ許せ。
 余談だが、他に、値段と著者名に釣られ、坂口安吾著「ヤミ論語」(0円)と下村湖人著「論語物語」(108円)も買った。前者は戦後のエッセイ集のタイトルで、通読したが論語とは全く関係無い。後者は復刻版で、旧著の各ページを写真撮りしたものがそのまま載せられている。しかし不鮮明で暗く、読むのに難儀した。論語を題材にした物語で面白そうだったが、とにかく読みづらく、1-2章分を何とか判読した後は退散した。改めてAmazonのページを見ると、同じ復刻版だが「なか見!検索」で確かめると、もっと明るく鮮明なものがあったので購入した(180円)。まだ読んでいない。
○ 【復刻版】下村湖人の「論語物語」(響林社文庫) [Kindle版]
 閑話休題論語は予想通り面白くなかった。それにしても若干の発見はあるもので、人物批評が多いことには驚いた。弟子とか他人が、いろんな人物について、孔子の評価を求める。好悪含めた孔子のコメントが弟子の筆を通して書かれている。論語の基本理念である「礼」の有無が評価基準のメインファクターだが、論語の、このような処世術風的、社会規範的な内容が、私はかねて嫌いだった。
 しかし、このようにまとまって読んでみると、社会との付合い方の模索が孔子の求めたことだったのかと思い至った。「60にして耳順(したがう)、70にして…不踰矩(のりをこえず)も、社会との付合い方を模索してから到達した境地だったのかと思う。
 それで、70歳前の孔子はどうだったかという本項始めの問題に戻ると、a)の矩を踰えていたという話は見当らない(主君に容れられず流浪するのは、矩を踰えるとは言わないだろう)。b)の無原則は考えにくい。ということで、c)であろう。では、どんな心に沿わない規範だったのかはよく判らない。その都度別の規範を援用していたのかも知れない。
4) 踰矩の具体的候補
 踰矩(ゆく)にも具体例がないと目安にならない。しかも、「踰える矩」に注意が必要だ。犯罪となり、警察で取り調べられ、その後刑務所や病院での観察処分となるのは嫌だ(もっとも、そのような非日常も時にはいいか)。家族による観察処分はもっとうるさく、辛い。ということで、刑法関係では累犯を避けて小事に留めるなどの配慮が必要だろう。余りドラマティックな「矩」は期待しないでほしい。
以下、幾つかの具体的候補を挙げる。
a) 徘徊老人
 心の欲するまま、彼方此方を彷徨うのは夢だ。認知症になればいいことだが、認知症の徘徊老人は危ないとして、家や病院に拘束される恐れがある。心は、虚ろな徘徊老人だが、外からは、単身旅行好きの退職老人と見られるようになればいい。
 東京都では、70歳の誕生月になると「シルバーパス」が交付される(ただし、有料、年20,510円)。都営交通(都バス、都営地下鉄等)と都内の民営バスに乗車できる。どこへ行っても気の向くままに行ったと言えば、怪しまれなさそうだ。近距離ではこれが有効だろう。遠距離ではJRの「青春18切符」がよさそうだ。季節的期間の制限はあるが、11,500円で、5日間、JRの普通列車、快速列車で乗り放題だ。昨2015年4月に90歳で亡くなった義理の叔父が数年前まで、この青春18切符を愛用していたと聞いた。私もまだまだ可能だ。
b) 逆走
 自動車を運転していての逆走は、心の欲する所の極致だが、けがをする可能性が高いことを考えると心が引ける。年寄りの骨折は長引き、寝たきりになる可能性が高い。死んでしまえば当人は楽だが、周りに迷惑をかける。今後登場する自動運転車*5に任せたい。現在自動運転で問題になっていることの1つは、人間の介在を認めるか、認める場合どの程度かだ。トヨタ自動車のコンセプト「Mobility Teammate」は車と人とがパートナーということで、運転者が前面に出ている。認知症的な運転者が逆走を始めたらどうなるだろう。
c) 漫画喫茶
 漫画喫茶も入ってみたい所だ。半日も過したら楽しそうだ。にやにや笑って読んでいても、ぼけ老人の趣味ということで、大目に見てくれるだろう。初めての時は、借り方が判らないかもしれない。今のうちに入っておこうか。
d) 老人力
 2014年に亡くなった赤瀬川源平に「老人力」という名著がある。誤解されやすいが、彼の「老人力」は、高齢者がマラソンや水泳で頑張るという、老人パワーのことではない。老いてボケる力、忘れる力だ。忘れることで、「頭はかえって開かれてくる、…むしろ吸収がよくなったり、活性化する、新しいものが入りやすくなる」と書いてある。すなわち気兼ねなく、新しいものへの興味に没頭できる、深められることが、老人力の利点だそうだ。私にそのような深い利点があるかともかく、私としてはボケることで、矩を踰える力が得られそうだ。
e) その他、気ままな自由
 内心、毎週ブログを書こうとの目標がある。しかし、気ままだから、何時でも書いてもいい、何時でも中断できる。人と話すのも気まま、話さないのも気ままだ。SNSで友人の記事に感心することが多い。単なる「いいね」ではもの足りず、ちゃんとコメントしなければと思いつつ、面倒くさくなる。そのうちあまり友人への反応に差別を付けてはいけないと言い訳しつつ、公平に誰にもコメントしなくなっている。不義理は長生きの秘訣だと誰かが言っていた。

 ということで、「踰矩(ゆく)」の年代に乗り出したが、どうなるだろう。サラリーマン時代の習性が抜けないまま、不踰矩に留まるか、あるいは暴走して警察のお世話になり、友人のSNSのネタになるか。

*1:太陽暦を採用している国が、古代から全て満年齢かということについては、ざっと調べたがよく判らない。

*2:真の1年は、ほぼ365.242199日。

*3:私の小中学生の頃、両親や近所の大人の会話はもっぱら数え年に依っており、私は学校との違いに閉口した。誕生日も概しておざなりで忘れられることも多く、ケーキなど食べた記憶はない。長じて、年下で東京育ちの家人と結婚し、誕生日に遅く帰宅して難詰された。誕生日が何だと開き直ったら、泣かれて困った。

*4:これも厳密にいうと、孔子時代がどうだったかはよく判らない。中国の太陰太陽暦は、殷代(紀元前16世紀から前11世紀)に既に導入されていたという甲骨文のの史料が発見されている。ただ新年の始めは「三正論」との考えから王朝により変っていた。殷代の前の伝説的な夏王朝では寅の月(日本の旧暦の正月、中国の春節)、次の殷王朝は1月前の丑の月、次の周王朝は更に1月前の子の月(すなわち旧暦11月)が新年正月であり、その後の王朝はそれを繰り返すものとされていたという。孔子の生没年は紀元前551年-前479で、春秋時代に当る。周王朝は、紀元前770年に一旦滅亡してその後春秋戦国時代になったから、正月がどうなったかは判らない。以上、三正論等については、岡田芳郎「旧暦読本」(創元社、2006年12月。図書館で借りた。)

*5:id:oginos:20151130 「自動運転の未来」参照