50年以上前の東京の想い出

 前回の幣ブログで、たまたま、ちょうど50年前の1965年に東京に出てきたと書いた。それで、改めて昔のことを想い出した。1965年は大学入学の年だが、私はそれ以前、小中高時代に東京に割によく来ていた。それで、本稿では50年前より古い東京の想い出を記す。個人的な想い出だし、身辺雑事は原則書かないという本ブログの趣旨にも沿わない。しかし、身辺雑事というのはそもそも書いている時点で流れ行く話の意味で、長い時間を経ても残っている想い出は少し違うかも知れない、という強弁でご容赦願いたい。
(主要な都内立回り先)
 想い出の時期は、1955年(昭和30年。私の小3)頃(ないし少し前)から1964年(昭和39年。私の高3)まで。私の家(富山県)は東京に親戚などが多かった。小中時代は、浅草象潟(台東区)、西八丁堀(中央区)、麻布・二の橋(港区)*1、神谷町(港区、地下鉄の駅名)、渋谷などの親戚ないし母の知人のところが、主要な立回り先だ。母が行く場所に連れていかされただけで、観光した記憶はあまり無い(東京タワー(1958年完成)には行った)。1-2年に1回ぐらいの見当だったと思う。浅草、二の橋、神谷町は、1965年以降も母に連れられて数回行ったが、現在は没交渉だ。中高では後述するが、兄の寮で、下井草(杉並区)、四谷(新宿区)だ。
 既に故人(2003年)だから勝手なことを書くが、母は本当に東京に限らず、外出好きだったと思う。確かに親戚関係のことでいろいろ世話を焼いていた面はあったし、兄2人も東京の大学だった。しかし、そんなに外出しなくてもと家族内でも不満が多かった。7つ違いの次兄が母にそのことで泣き言を言ったことがある。世界少年少女文学全集などを読んで影響されていた私(小学低学年頃か)は、「こういうことで子どもは鍛えられるんだ」と兄を慰めたことがある。
 想い出話と書いたが、親戚の話はここで触れるに適当でない。それ以外は、交通機関関係の想い出が多い。羊頭狗肉だが再度ご容赦を。東京ローカルの話ばかりだ。
(上野着の夜行列車)
 東京までの旅行手段は、もっぱら国鉄(もちろん当時の呼び方)の北陸本線から、a)信越本線(直江津から長野経由)、又はb)上越線(長岡経由)で上野駅に着く。北陸本線はもとより、信越本線上越線*2も地方の部分は電化されておらず蒸気機関車だった*3たまたまこの3月に北陸新幹線が開通した。東海道新幹線は51年前の1964年開通だ。我が家は何故か夜行列車の利用が多かった。急行で確か9時間ぐらい掛かって上野駅に着いた。
 また、この3月には上野東京ラインが開通し、宇都宮線高崎線常磐線東海道線が直結し、終点が上野駅でなくなったのは感慨深い。上野駅の終着駅型のプラットホーム*4は使い道が無くなってどうなるのだろう。直通運転といえば次の課題は、東海道新幹線と東北・上越北陸新幹線との直通だ。しかし、極めて仲の悪いJR東海JR東日本では、当分実現しないだろう。
(地下鉄と都電)
 都内の交通手段のメインは、地下鉄銀座線*5と都電だった。銀座線は、上野駅と浅草、虎ノ門、渋谷とを繋ぐ、母の主要立回り先に関連する重要路線だ。すなわち地下鉄日比谷線などが無い時代だから、上記の神谷町、二の橋に行くには、虎ノ門から都電に乗り換えた。西八丁堀もそう。都電は線路があり、停留所も交差点の傍の道路の真ん中にあって極めて判りやすい。路線数もほどほどだ(40位なので案内図も小さい)。バスはあまり乗らなかったが、都電の運行形態の判りやすさに比して、判りにくく、品格面でも劣るような気がしていた*6
 また、トロリーバスが走っていて乗りたかったが、浅草を通る路線は、鶯谷は通るが上野駅には行かないとのことで、乗る機会がなかった。東京のトロリーバスは1968年に姿を消し、結局乗れなく残念だ。
(都電回数券のトラブル)
 覚えているのは都電の回数券を巡るトラブルだ。都電の運賃の変遷を見ると、1956年7月から1961年7月まで13円、1967年10月まで15円とある*7。回数券があり、10枚の料金で11枚の券が付いている。余談だが(後述するが、実はそれほど余談ではない)、都電の停留所(電停と言ったか)で、この回数券を1枚ずつバラ売りしている人がいて驚いた。子供心に、利益(13−15円)を得るには、先ず10枚分の投資をして11枚も売らなければならない。(少年少女文学全集に書いてある通り)世の中貧しいのだと思った。
 閑話休題、私も回数券を使った。正しい使い方は、車掌に回数券の綴りを見せ、人数分パンチを入れてもらう。降りる時にはそのパンチ穴が開いた券を車掌が回収する。しかし、混んでいる時などは、パンチ穴を開けてもらわずに降りる時に新券を出している人も多い。私はある時、パンチ穴を開けてもらった券が、降りる時に焦って見つからず、新券を渡した。次に別の都電に乗った時、その穴の開いた券を見つけ、降りる時に車掌に渡したら受け取ってもらえない。自分はパンチしていないというのだ。泣く泣く新券を渡して降りたが、非常に損をしたと思った。上記のようにそれを売って生計を立てている人もいるくらいの金額だ。
(乗務員の不正防止策)
 その後になって、この仕組の目的が判った。中学時代(1959-62年)は、地元で30分程の路面電車での通学をしていた。車掌の業務の1つに車内乗車券の発行がある。見ていると、正統的な販売方法は、乗車券綴り(1枚にミシン目で5枚ぐらい印刷された紙片を、数十枚分製本したもの)を乗客に見せ、乗車券1枚ずつにパンチ穴を開けて、代金と引換に乗客に渡す。ところが、車掌の中にはパンチせずに渡し、降車の際に丁寧に回収している人もいる。はっきりした記憶ではないが、その回収したきれいな券を他の乗客に売っているのを見た。これはバスの車内乗車券でも同様な仕組だ。
 すなわち、乗車券綴りとパンチのシステムの目的は、車掌の不正防止だ。多分、時々監視役が周回しているのだろう。改めて考えると、前述の都電の回数券バラ売りの元手は、自己資金で買った回数券ではなく、このような使い回しの券なのかも知れない。
 大きくなって社会人になってから、バス運賃箱のメーカーに行って話を聞いたことがある。商品開発の課題は、乗務員の横領防止策とのことだ。ワンマンカーの折返し停留所で人がいない間に運賃箱を開ける、運賃箱を乗務員がバスから取り外して営業所に運ぶ途中でわざと落して壊し、中を開けるなどが手口だ。新しい運賃箱を据え付けると運賃収入は直ちに増加するが、暫くすると減る。いたちごっこだという。
 乗務員は現金を直接触ってはいけない、昔はワンマンカーの運転手が手で受け取ってお釣りを渡したり、両替などをしていたりするのを見たが、不正の温床だ。現在ではそのような機械はない。全て乗客が直接お金を箱に入れる。高齢者などに手を差し伸べないのは、親切心が無いからではない。
 このように考えると、発展途上国でもこのような横領は多そうだ。日本の料金収納箱は輸出に向いているのではなかろうか。
(国電乗りこなしの秘伝−2つの3角形)
 7歳違いの次兄が東京に行ってから、2回連れて行ってもらった。私が小6の時(1958年)に兄は大学に入ったから、1回目は私が中学の時だ。兄の帰京時に付いていった。兄は西武新宿線下井草駅の近くの学生寮にいて、数日間そこに同室で泊めてくれた。
 母と一緒の時の上野駅ではなく、急行で1つ前の赤羽で降りて池袋、高田馬場で乗り換え、下井草へ行った。上野駅とは違い、山手線の狭く長いホーム、高架線、線路に近接したアパート群、人波(夜行だから朝のラッシュアワーに着く)に感嘆した。
 兄は寮に着くと、私が自立して行動できるために重要なことを教えてくれた。先ず東京の国電では2つの3角形を理解しろという。朝通ってきた路線を1辺とする赤羽・池袋・田端の大きな3角形と、御茶ノ水・神田・秋葉原の小さな3角形だ。2つの3角形は、その後の半世紀以上の東京生活で役に立っている。
 次に、都心で迷った時の寮への帰り方だ。西武線高田馬場を目指せ、都心から高田馬場へは都電が安い(乗換券がある)。西武線20円と都電15円を残しておけば帰られると言う。兄は1度飲みすぎて金が無くなったが、20円だけ残していたから帰れたという。どこから歩いたかと聞くと、大手町の辺りから高田馬場だと言っていた。
 数日間の滞在で、どこへ行ったかもあまり覚えてないが、楽しかった。覚えているのは、兄が連れて行ってくれた数少ない場所の1つ、新宿歌舞伎町のモダンジャズ喫茶だ。
(東京の夏空はどんよりして暑い)
 2回目に兄のところに行ったのは、私が高3の夏で兄が東京の会社に就職して3年目の時だ(1964年)。私が東京の駿台予備校他の夏講習に行きたいと言ったら、親は何故か認めてくれた。その代わり兄の会社の独身寮に泊まれるよう兄を強引に(?)説得したようだ。今から思うと、兄も寮もよく了解したものだと思う。狭い個室に兄と同室だ。食事は、寮の食堂で朝夕出してくれた。兄は受験生が部屋にいるから遠慮してか、帰りは何時も遅かった。その会社の寮は四谷と信濃町の中間の南元町にあった。駿台予備校は四谷にあったので*8、歩いて通った。その他の講習も受けに、御茶の水にも通った。
 受験勉強は進んだかというとそうでもなく、兄の部屋にあった各種週刊誌などを読みふけっていた時間が多かった。この時に感じたことは、東京の夏の空は曇っていてどんよりとし、蒸し暑いことだ。富山の夏の明るい空が懐かしかった。今は東京の空は随分きれいになった。逆に、北陸の冬のどんよりした寒い空を考えると憂鬱になる。
(家族旅行)
 上記は、母又は兄との旅行で、それぞれ単独だ。父と行ったことも多いが、そのことは、3年前の弊ブログ「父との出張旅行」( http://d.hatena.ne.jp/oginos/20120619 )に書いた。ところが家族揃っての旅行は皆無だ。両親と私の3人で旅行したのも2回だけで、1回は小中の頃で行き先は富山県内の温泉だ*9。もう1回は私の大学の入学式だ。両親揃っての大学入学式参加は当時珍しく、少し恥かしかった。我が家に家族旅行はなかったが、皆さんそれぞれ忙しかったのだろう。
 今から思うと、何故母は小学生の私を東京に連れて行ったのか判らない。家においていくのが心配だったのかも知れないが、学校のある時は前述のように平気で留守にする。また、私も地下鉄などしか想い出せないような詰らない旅に、何故いそいそと付いて行ったのか判らない。多分、夜汽車の煙と窓枠の鉄の香り、地下鉄の喧騒と都会っぽい臭い、都電の風格などの非日常が好きだったのかも知れない。

*1:住所名ではない。虎ノ門から都電に乗って、神谷町、飯倉、赤羽橋、一の橋、二の橋、三の橋と続く都電の停留所。現在は交差点やバス停の名称。現港区麻布十番3丁目

*2:上越線は「本線」とは言わない。

*3:調べると、例えば東京−長野間の電化は1963年。当時のジーゼル機関車は力が足りず、長編成の列車には使用されなかった。

*4:ウェブで調べると、頭端式、櫛形、E型などというらしい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E7%AB%AF%E5%BC%8F%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0

*5:地下鉄は銀座線と丸ノ内線の2線。銀座線の全線開通は1939年、丸ノ内線の池袋‐新宿間は1959年。なお、都営地下鉄のごく一部(押上−浅草橋)は1960年、日比谷線のごく一部(南千住−仲御徒町)は1961年に開通したとのことだ。

*6:都電は乗換券があって、中遠距離も無料で乗り換えることができて合理的だが、バスは無い。直通のバス路線が無いと不当に高くなる。

*7:http://homepage3.nifty.com/~sirakawa/Coin/J068.htm#E07

*8:今調べると、四谷の駿台予備校は、中学生向けになっているようだ。

*9:はっきり覚えていないが、父が民間療法の先生の所に行くためだったような気がする。