今週のお題「父との思い出」父との出張旅行

 「今週のお題」の「父の想い出」を見て、父の出張旅行に連れて行かれた想い出を述べる。

 写真は、広島の厳島神社での父との写真だ。時期は1956年3月(私は小3)か1958年3月(小5)の何れかだ。長年、小3の時に、関門自動車トンネルの開通直後のトンネルを通り、その帰りに広島に寄ったと思い込んでいた。しかし、改めて調べると関門トンネルの開通は1958年3月だ。そうだと小5の3月となる。小3だという思い込みも強いので、関門トンネルは別の旅行だったのかも知れないと自信が無くなる。
 家族について最小限の説明をすると、父の生没は、1901−1976年で、私は父の45歳の時の末っ子だ。姉兄は3人いるが、17歳、12歳、7歳と離れている。ちなみに、終戦翌年の1946年生れは、このように齢の離れた末っ子か又は長子が殆どだ。それで主題の旅行の話だが、このような家族構成だったせいもあってか、家族旅行をしたことがない。ただ、父は息子たちを個別に旅行に連れて行った(それぞれ写真がある)。私の場合は、何回か父の出張に一緒に連れて行かれた。父は中小企業を経営し、全国ベースの業界団体の会員から役員をしていて、その総会、理事会などで各地に出張していたようだ。それに子供を同伴するとは、今から思うと公私混同だ。以下、印象の強かった2回の出張を紹介する。
1) 山口秋芳洞
 写真の厳島神社は、山口市の旅館で開催された業界の集まりの復路に寄ったものだ。この山口での業界の会議に父が出ている間、取り残された私はどうしようということになり、旅館の人の勧めもあって、秋芳洞に1人で見学に行くことになった。バス(普通の路線バス)の乗り方を聞いて、少し不安だったが1人で行ってきて、秋芳洞は非常に印象に残った。このほったらかし事件は、流石に家に帰ってから問題になり、父は家族から責められたようだ。
 往復の旅路も面白かった。高岡(富山)から山口までの往路は、北陸線→山陰線の日本海側沿いで、夜行だ。鳥取で朝になり、砂丘を見に行った。汽車(電車ではない)の時間の関係か浜田(島根県)の駅前旅館で泊まって、翌日山口市に入った。復路はやはり夜行で、山陽線を通り、写真の広島に朝到着した。その後も定かではないが旅館、ホテルに泊まった記憶がない。朝、名古屋の熱田神宮に参詣したが、夜行で着いたようだ。それから高山線で富山に帰った。別に我が家が貧乏だったとは思わないが、何故か父は夜行が多かった。忙しかったのだろう。
2) 横浜 ホテルニューグランド
 これは、楽しかった前項の秋芳洞と違い、私にとっては苦しかった想い出だ。小学高学年の頃(中学低学年かも知れない)、父の業界団体の総会が、横浜の山下公園の面前の「ホテルニューグランド*1で開かれた。宿泊はそのホテルで、会議の時間中、1人私は部屋で本を読んで待っていた。問題は昼食だが、父は、5階にレストランがあるからそこへ行って食べたらいいと言う。
 田舎者の私は、それまでレストランに行ったことがなかったが、エレベーターで5階に降り立って本当にひるんだ。そこはレストランの入口が無く、エレベーターを降りると直ぐ、お食事ですかと、テーブルに案内されてしまった。デパートの食堂のように、入口の前の料理の展示棚であれこれ品定めすることができない。
 手渡されたメニューを見たが、知らない料理ばかりだ。辛うじてオムレツを見つけ注文した。ウェイトレスから他にご注文はとか、パンはとか聞かれても、上の空で要りませんと言うしかない。出てきたのはオムレツだけなので、オムライスを想像していた私は焦った。ふわふわした上等そうなオムレツだったが、私の方は気持がふわふわして何の味もしなかった。ウェイトレスの少女は、気の毒そうに私を見ていた。
 家に帰ってからは、私を可哀想だと同情してくれる人もいたが、基本的に笑い話となった。
 父は寡黙で、説教じみたこともあまり言わなかったが、他にもいろいろ連れて行ってくれた。小さい時から得難い経験ができたのではないかと思っている。

*1:映画「THE有頂天ホテル」、TVドラマ「華麗なる一族」、「南極大陸」の舞台だったそうだ。