不破哲三・時代の証言

不破哲三「時代の証言」(中央公論新社、2011年3月)
 新聞の書評で紹介されていたので買った。書評がよかった訳ではないし、不破のファンでもない。3年前に次の本を読んで、日本共産党の実態に唖然としたことがあり、その党の指導者の著書ということで興味を持った次第。従って、最初から批判的な眼で読んでいるので、邪道だ。しかし、既に功なった著名人だ、許されるだろう。
○ 兵本達吉「日本共産党の戦後秘史」(新潮文庫、2008年11月。単行本は2005年7月産経新聞出版だが、文庫本化に際し大幅な改稿がされたとのこと)
 本稿は、大々的に日本共産党を論じるものではない。以下、1)兵本(ひょうもと)著のポイント(私がびっくりしたこと)、2)一読して気になった不破著の文体上の特徴その他の感想、c)兵本著が共産党に関して批判したことに関する不破著での記述振りを幾つか述べる。
1) 「日本共産党の戦後秘史」で驚いたこと
 著者の兵本達吉は、私は初めて知った。1938年生れだから不破より8歳下、京大法学部中退で在学中に共産党に入党、党の国会議員秘書などをして、1998年除名された。同書を読んで、かねての共産党のイメージを再確認したことが多かったが、びっくりしたことも多かった。そのうち幾つかを述べる。
a) 1950年代前半に実行された火炎びん闘争等の軍事闘争路線は、共産党の暗部とされている。その後党内でも隠し切れず、「50年問題」として問題の所在は認めつつも、タブー視されてきたとのこと。私は、ソ連の指示が当然あったにしても基本的には、党内で日本の革命のための路線論争があり、その結果の選択であったのだろうと思っていた。しかし、兵本によれば、これはスターリン毛沢東が企画した、朝鮮戦争の一部としての後方攪乱作戦である。ソ連共産党野坂参三らにそれを命令した経緯が生々しく述べられている。
b) 1955年に、この軍事闘争路線は撤回され*1宮本顕治復権し、徳田球一らの主流派は失脚していく。その過程で、宮本らは、50年の軍事闘争路線の採用について、徳田一派とソ連共産党を激しく批判していく。しかし、1950年にコミンフォルム(説明略。ほぼスターリン)が徳田、野坂らの平和革命路線を批判したとき、宮本らはこの批判に同調して徳田主流派に、暴力路線へ転換するよう強く主張していたとのことだ(宮本らはその後暫時失脚)。それを忘れたような変身に驚かされる。
c) 日本共産党の「民主集中制」と言われる体制では、自由な議論は許されなかった。党大会はもちろん中央委員会でも議論などなく、幹部会の方針を聞くだけだったとのこと。著者がある幹部会員に幹部会での議論振りを聞くと、幹部会は常任幹部会の報告を聞く所だとのこと。ではその常任幹部会はどうかというと、宮本議長や不破委員長からお話を伺う貴重な機会だとのことだ。唖然とする。
d) 戦前投獄された共産党の党員のほとんどが(志操堅固の筈の最高指導部も含め)、逮捕後ほぼ直ぐに転向していた。それも驚きだが、転向の理由が、コミンテルン(上述のコミンフォルムとの違いは省略。ほぼスターリン)の1932年テーゼで、日本の天皇制の革命的打倒を命じていたことに由来するとの分析には驚いた。すなわち、天皇のロシア語訳はツアーで、ロシア人にしてみればツアーを打倒しない革命はあり得ない。しかし、日本の党員にとっては、天皇制打倒のスローガンが国民に浸透するもの、実行可能なものとは思われなかった。国民から孤立して事を起こす自信が無いまま運動を続けていたことが、逮捕後の転向の最大の動機であったとのことだ。天皇制に対しそのような思いが共産党員にも普遍的であったということが、私にはちょっと信じられない。
e) 宮本は戦前投獄されて12年もの間、非転向を貫き、それがその後の宮本独裁体制の確立に繋がっていく。兵本によれば、宮本には転向の利益が無かったので、転向しなかっただけとのことだ。宮本の罪は、治安維持法違反だけでなく、スパイ査問事件における不法監禁致死罪(刑は無期懲役)であり、この罪名では転向しても、制度上仮出獄などできなかった(転向した人は大体仮出獄していたらしい)。取調べの際に黙秘を貫いたのも、下手にしゃべるとその矛盾を検察官につけこまれて、殺人罪から死刑になる可能性があったからだ。怜悧な計算に基づいた、黙秘と非転向と述べている。
 1976年1月に、春日一幸民社党委員長が国会でこの戦前の宮本のスパイ査問事件を取り上げたときの共産党内の大騒ぎも述べられている。戦前の事件がでっち上げだということを証明するために党内に委員会が設けられ、著者も参画した。いろいろ調べたが、宮本本人からの聴取は許されず、秘書を通じての質問のみが許されたとあるから滑稽だ。昔の殿様の病気のとき、医者が直接脈を取ることを許されないので、脈に糸を巻き隣の部屋から糸を通して脈を診たという故事から「糸脈」と評して、その後冷飯を食った国会議員(党員)がいたとのことだ。
f) その他、50年代の武力闘争の滑稽さ、党内異端者に対する査問の陰湿さ、戦前のリンチ事件等についても詳細に述べてある。
2) 不破著の文体上の特徴
 読み始めてから気になっていった文体上の特徴を幾つか述べる。
A) ですます調と尊敬語
 共産党の文書の「ですます」調は、私はあまり好きでない。評論は「である」調の方が、余計なニュアンスの接尾語に気を遣わず、頭も整理しやすいと思う。それが「ですます」で書かれると、一応下手のように見えても、心底での「上から目線」が感じられて苦手である。この本も「ですます」で貫かれている*2。図書館で不破氏の本を4-5冊見たが、やはり「ですます」だ。例えば、「新・日本共産党綱領を読む」は、後述の2004年の党大会で43年ぶりに改定した綱領の解説書(全417ページ)だが、ですますで書かれている*3
 今回発見したのは、尊敬語と謙譲語が無いことだ(「ですます」は丁寧語)。ひょっとしてこれは共産党の文章では有名なことなのかも知れないが、私は知らなかった。尊敬してやまないであろう宮本顕治にさえも尊敬語を使わない。敬称も役職名が無いときは「さん」である。
 数少ないが、尊敬語の用例はある。「宮本議長へ『引退』進言」、「宮本さんは…回復された」、「(書記長を)退任される時期だろう」、「宮本さんが…言われた」。これは揚げ足を取る積りではなく、ある程度の尊敬語は日本語として自然だろうと感じる。
 疑問は、a)上司に話すときも尊敬語、謙譲語を使わないのだろうか、b)家族間、特に親子間でも「ですます」だろうか、尊敬語は無いのだろうか(学校では教わるだろうに)、c)頭の中で思索検討する時も「ですます」だろうか。
 尊敬・謙譲語を使わないのは、ある意味ですがすがしく感じる。余談だが、世の中は現在過剰敬語が溢れていて異常との感じだ。「ございます」の多用は過剰敬語、最近の政治家の発言に多い「させて頂く」はエセ敬語、ファミレス等でよく聞く「…でよかったでしょうか」などは非日本語と、私は思っている。
B) まえがきへの違和感
 この本は、政治家の回想録として位置付けられようが、それなら、まえがきで自分の人生への総論的な感想があるのが普通だと思う(本の中身の概略紹介でもいい)。しかし、この本のまえがきの内容は、読売新聞社の企画連載「時代の証言者」への登場の依頼の経緯とそのインタビュー等の作業内容の説明だけである。よほど自分の人生への総括ができていない人なのか、本の内容が共産党の宣伝だけなのかと思ってしまう(中を読むとそうではなく、なかなか面白かった)。もっとも最後の章が「入党64年、世界観揺るがずーあとがきにかえて」のタイトルで、総括的感想が述べてある(「世界観揺るがず」とは言い過ぎかと思う)。問題はまえがきの中に裏話的なこと(あとがきで書くようなこと)が圧倒的に多かったから違和感を持った次第だ。
C) 文章が一部読みづらい
 文章が整理されていない所が少なからずある。主語述語の関係が明確でない、主語が途中で変るなど、文章読本で注意されそうなことがあって、読み辛い。Wikipediaによれば、不破の著書は140冊以上という。そのような大著作家に失礼なことを言うのも勇気がいるが、沢山本を書く人は全てに目を配ることは難しい(駄作もある)とかねて考えているので、それほど著者を批判しているものではない。
(p.5-6) 「友達仲間でも、・・・・みんなで工夫して遊ぶ時代でした。」(主語が変る)
(p.9) 「ある週刊誌が「私はこれをやりたかった」というグラビア企画を立てて、私のところへ話を持ってきたのです。『作家志望で、吉川英治記念館で撮りたい』と答えたら、早速その手配をしてくれました。」
(ここは省略無しに原文のまま。後を読むと、「私はこれをやりたかった」の内容が「作家」で、グラビアを撮る場所の希望が吉川記念館ということが判るが、私は最初この文の意味が本当に判らなかった。ちょっと舌足らずの感じ)
(p.13) 「兄が解析概論…を家に持ち込んできたことがあったのですが、読み出したら面白くて打ち込んでいたのです。」(主語が変るので、最初「打ち込んでいた」のは兄かと思った)
3) 不破著へのその他の感想
D) 同僚が出てこない
 この本は、政治家の回想録だが、党内の同僚の名前が殆ど出てこないのも変な感じがする。穿った見方をすれば、党内では議論が無く全て自分又は宮本氏との協議で決定していたので、同僚との実のある交流が無かったのか、又は同僚は全て非条理なやり方で論断し失脚させてきたのでメンションするに憚れたのではないのか、などと邪推してしまう。実兄の上田耕一郎の名前も、一高時代、入党、党専従就任時に、背景的に出てくるだけで、路線上の議論をしたというような話は出てこない。志位和夫(現委員長)も書記局長就任時(35歳)の紹介だけで一緒に仕事をしたとの話は無い。
E) その他
 党内の同僚の名前は出てこないが、外部との交流の話は多い。外国の共産党首脳との会談、日本の首相、他党の首脳との会談、国会での質疑は具体的な話が多く、それなりに面白かった。
 ソ連を初めて訪問したのが1985年というのも興味深い。1970年に党書記長になって初の野党の書記長クラスとの討論会の後、江田三郎(社会党)、矢野絢也(公明党)、佐々木良作(民社党)と雑談した。その際に、ソ連訪問の経験が無いのが著者だけというのが判り、3人それぞれに複雑な表情をしたというのが印象的だ。ソ連と関係が悪かったのは日本共産党だけだったということか。
 その他、「50年問題」への反省、61年綱領の改定の話など、党の方針の変更の話は相当丁寧に説明されている。
4) 兵本著と不破著との対比
 不破は、一高時代の1947年、17歳(の誕生日のすぐ前)で共産党員となり、1953年大学卒業後鉄鋼労連に勤務し、1964年党専従となって、1970年40歳の若さで書記局長に就任した。1961年綱領*4制定時には党専従でなかったから、同綱領の制定には形式的には責任が無いとも言える。しかし、鉄鋼労連時代にもペンネーム(不破哲三は元来はペンネームだった)で重要な論文を発表し、党の路線に少なからぬ影響を及ぼしていたと見られるので、全く責任が無い訳ではなかろう。
 61年綱領は2004年に43年ぶりに全面的に改定されるが、それまでの間も、不破により、いろいろな形で大幅に、かつ平然と修正されていく。「平然」とは、ソ連や中国、他党や徳田一派を批判するが、自党の過去は何も反省しないという意味である。兵本はその変節振りを厳しく批判しているが、不破著の方でも一部の項目では対応した記述がある。以下、いくつか紹介する。
a) 上記1)のa)で述べた50年問題については、不破著でも触れられている。1950年1月のコミンフォルムからの痛烈な批判については不破自身もびっくりしたが、言われた限りでは納得できたとある。後で判ったが、この批判は「二重底」で、本当の狙いは、日本共産党に武力闘争を押し付けるスターリンの戦略だったとし、兵本の評価と一致している。その後の「武力闘争」路線は、宮本らを追い出して党を分裂させた徳田一派に責任を押し付けている。
b) 上記1)のb)の宮本の1950年時にコミンフォルムの方針を支持していたことには触れられていない。
c) 同じc)の「民主集中制」については、不破も「反共勢力がしばしば攻撃の標的とする」と意識はしていたが、結局は「戦後の経験の中で重要性を確認した党組織の大原則」とし、2000年の規約の改定の時に、5つの基本点に絞って、民主集中制の内容を明確にしたと述べている。それは、党の意思決定は民主的な議論を尽して最終的には多数決、決定されたことはみんなで実行、行動の統一は公党としての責任、などである。これでは、党内でどんな議論があったか、本当に議論があったかさえも、部外者には判らない。「集中制」の語の維持がポイントだ。
d) 同じd)の天皇制については、「日本国憲法は『天皇は国政に関する権能を有しない』と規定するので、天皇制は君主制ではない。君主制の廃止(天皇制の廃止)を当面の変革の不可欠の任務と位置づけたのは、61年綱領の誤認だった」と書いてあり、その豹変振りに唖然とした。天皇制の制度の是非は将来の国民の選択に委ねると逃げている。
e) 同じe)の宮本のスパイ査問事件については、ほとんど書いてない。2007年に亡くなった際の不破の弔辞の中で、「非転向を貫いた宮本さんの獄中闘争は、党の歴史と伝統、名誉を守り抜いたということで非常に重い意味があった」と無条件に賛美している。
f) その他(兵本が非難している共産党の変節等)
・1961年綱領(それまでの社会主義革命路線から民主主義革命路線への転換等が内容)は、実は58年の党大会にも提案されたが、代議員の40%が反対したため採決を延期し、61年に満場一致で採決された。兵本によれば、その間に反対派の代議員をいろいろな手段で追放したとしているが、不破著では、「反対意見にあくまで固執した少数の人々は党から離れ、満場一致で採択された」とある。ものは言い様だ。
・61年綱領で使われていてその後言い換えられている語が幾つかある。例えば、「独占資本」は「大企業・財界」に、「マルクスレーニン主義」は「科学的社会主義」に。なお、不破著では、1976年に「科学的社会主義」の表現を決定したとき、学術や理論活動上の用語としては「マルクス主義」も認められるが、「マルクスレーニン主義」は許容範囲対象外だとされた。レーニンソ連への絶縁だ。
・61年綱領では、ソ連社会主義陣営の先頭に立つ特別の地位にあると明記されていたが、2004年の綱領改定の際に、「ソ連社会主義国でなかった」とされた。これも驚いた。
・61年綱領のポイントの1つである「2つの敵」の1つである「米国帝国主義」に対し反対と叫ぶ者は国際的にいなくなったので、2004年綱領では米国帝国主義反対はお蔵入りになった。
5) 若干の感想
 兵本は、以上述べたような共産党の変化を無節操と非難するとともに、章名の1つに「暴力革命の遺伝子」と名づけたように、共産党の根本は変わらないのではないかと疑っている。不破の方は、全てではないが、それなりに共産党の考え方を説明しようとしている。これは以前より進歩で、正直言って感心した。
 私は、共産党は、これだけ国会で議席があり、国民の多くの票が投じられている現在の状況から見ると、暴力革命路線は当面実行できないだろうと思う。多くの政党と同じように、有権者に納得される言動をせざるを得ない。しかし、将来情況が変ったときにどうなるか、共産党だけでなく他の政党でも豹変するかも知れない。そのとき日本国民が民主主義を守る強靭さを持っているか、密かに心配している。
 話は飛ぶが、現在の民主党政権はどうだろう。「民主集中制」は、どの左派にも共通している体制だが、その問題は、議論の進め方、衆議のまとめ方のノウハウが育たず、往々にして中央の決定を押し付けるという安易なプロセスに頼ることだろう。民主党政権の問題の1つは、そこにあると思う。そのうち暴発するのではないかと心配だ。
以上

*1:1953年に朝鮮戦争が休戦となり、後方撹乱作戦も意味が無くなった。

*2:所々に挿入されている補説は「である」調で、ほっとする。

*3:綱領自体は「である」調。

*4:兵本著によれば、日本共産党が初めて自前で作ったと自称する綱領