インド雑記(3) 料理と浄・不浄

 インド料理について日本の本で紹介されていることは普通次のようなことだ。
a) インドはカレー料理だが、インドのカレーとはスパイスの入った汁物を言い、日本のカレーとは異なり、多彩だ。
b) 牛はヒンドウー教の聖獣、豚はイスラム教で不浄とされるので、宗教を問わずインドでは牛肉、豚肉は食べない。肉で出てくるのはチキンとマトン(羊肉)のみ。
c) 宗教上の理由で菜食主義者が多く、レストランでもVEGI(Vegetarian菜食)とNON-VEGI(Non-vegetarian非菜食、肉食)と両者のメニューが用意されている所が多い。
 何れも正しいが、本記事では、c)の宗教的背景を述べる。私はインドではもっぱらベジ(菜食)のメニューから選んだ。同席していた、インドに何度も出張している日本人が、ベジと言っても油が多いなど必ずしもヘルシーではないと教えてくれた。私はヘルシーの観点ではなく、美味しいと思われるからと答えたが、その理由も説明する。
(ヒンドウー教の浄不浄感)
 ヒンドウー教とインドのカースト制度は密接に関連している。簡単にインドの歴史を説明すると、世界4大古代文明の1つであるインダス文明は紀元前2300年頃が最盛期と言われる。高校の世界史で学んだインダス川モヘンジョダロハラッパーの遺跡は現在のパキスタン領内にある。このインダス文明を担った民族は、紀元前1500年頃に西方から移住してきたアーリア人に追われ、その末裔の行方は知れない(南インドにいるドラヴィダ民族との説もある)。またインダス文明には文書の記録が無く(少しはあるが解読されていない)、その意味でもその後のインドの歴史とは隔絶されている。
 インダス文明人を駆逐したアーリア人(現在の欧州民族と語学的には同根と言われる)は、バラモン教(ヒンドウー教の前身)を普及させたが、その中の枢要な概念がカースト制だった。すなわち、バラモン(祭司)を最上位とし、クシャトリア(王族・武人)、ヴァイシャ(平民)、シュードラ(隷民)の序列からなる4姓を固定した。インドの原住民(被支配層)を最下位のシュードラとする階級制は、現在にまで至っている。カースト制は、正確に言うと、「ヴァルナ」と呼ばれるこの4姓の他、一説には2000以上の「ジャーティ」と呼ばれる職業に結びついた身分があり、人は生れにより、職業が決定、世襲される。カースト制は、この意味でヴァルナ・ジャーティ制とも呼ばれる。更に4姓のヴァルナの枠外として最下層に、「不可触賎民」と呼ばれる階級がある。
 ヴァルナ、ジャーティの職業は、ヒンドウー教の基本概念である「浄と不浄」に結びついている。例えば、農業、製造等の生産に携わる職業は不浄とされ、最下位のシュードラしか従事せず、ヴァイシャは商業に携わる。清掃、死体処理等の職業は一層不浄とされ、カーストの枠外の不可触賎民しか行わない。特に動物の殺生に関することは「不浄」とされる。 この「浄と不浄」は、食物にまで適用され、上位カーストは不浄の食物は食べないことにより自分の「浄」を維持する。「浄」は菜食で、これにより上位カーストベジタリアンである。
(浄不浄の序列)
 食物の「浄と不浄」には驚くべきことにランクがある。山下博司「ヒンドウー教」*1から抜粋すると次のとおりだ。
菜食度の高(浄)→低(不浄)

  • 穀物葉菜類*2
  • 果物、
  • 熟果、根菜類
  • 卵(無精卵)
  • 卵(有精卵)
  • 海魚
  • 川魚
  • マトン
  • チキン
  • ポーク
  • ビーフ

 以下、適宜説明していく。
(ジャイナ教徒のメニュー)
 インドの菜食主義者にも程度があり、一部には無精卵まで何とか認める人もいるとのことだが、厳しい人は信じがたく厳しい。ジャイナ教という、紀元前5世紀(4世紀との説もある)に上記のバラモン教へのアンチテーゼとして、仏教と並んでインドで創始された宗教がある*3。2001年の国勢調査によれば、現在でも0.4%の信者がいる。そのジャイナ教徒の中には、タマネギ、ニンニク、トマト、イモなどを一切取らない人がいるという。不殺生(アヒンサー。マハトマ・ガンジーが唱えた「非暴力主義」もアヒンサー)を徹底するジャイナ教徒は、土の中の生き物を傷付けてしまうかも知れない土の掘返しで収穫する食物(ニンニク、イモ等)を避けるからだ。
 デリーのホテルのレストランでメニューを見ていたら、「Jain」の見出しがあった。英語でジャイナ教徒の意味だと知っていたから、ウェイターにどんな料理かと聞いたら、やはりタマネギやニンニクが無いという。早速一皿注文した。他と比較して、心なしか上品な味がした。
(エグタリアン等)
 前述の食物のランクで、卵を食べるという菜食主義者もいるが、人により無精卵と有精卵を区別する。有精卵の方が生命にリンクしていてより不浄ということだという。卵を食べるベジタリアンをエグタリアンとも言う。魚を食べる菜食主義者もいるらしいが、海魚と川魚は感じが違うらしい。川は動物の死骸(時に人間も)が流され、魚がそれを食べているからより不浄だと言う。
 ポークとビーフは理由が異なっていて、豚は、イスラム教のコーランで、穢れているゆえ食してはいけないと書かれている。ヒンドウー教でも一般に肉食を禁じているので豚は食べられない。牛は、ヒンドウー教だけの問題のようで聖なるがゆえに食せないということだ。日本の牛は穢れているからインドの聖なる牛とは異なり、食べられると言う在日のインド人もいるとの話が何かに出ていた。
 この「浄と不浄」の概念は、ヒンドウー教に限らず、インド人の土着の観念に浸透しているものと言われる。従って、外来のイスラム教やキリスト教は別として、インド発祥の仏教、ジャイナ教シーク教等にも表れている。
(サンスクリット化の動き)
 カースト制は、独立後の1950年インド憲法で禁止されているが、インド人の生活の中で生きている。特筆すべきなのは、カースト間序列競争が現在でも続いている(現在だからなお顕著なのかも知れない)ことである*4。2000以上に及ぶ各ジャーティ(職業の世襲による身分制)は、「浄と不浄」の概念に基づいて、バラモンを頂点とした序列が付けられている。序列をアップするためには、経済力だけでは不十分で、最上級のバラモンを模倣して生活を浄化していかなければいけない。例えば、より頻繁に祭式をバラモンに執行してもらうこと、肉食を止めて菜食にすることなどである。しかも、1個人、1家族だけでなく、その地域のそのジャーティに属する全家族の生活を浄化していく必要がある。
 このような形での序列上昇を目指す動きを「サンスクリット化」(ヒンドウー教の教典が書かれていた言語である「サンスクリット」の語を用いていることがまた象徴的な面があると思う)という。*5
 ということで、近年菜食主義の動きが下位カーストにまで広がっているとのことだ。
(ベジの味)
 冒頭に述べた、私が積極的にベジのメニューを選んでいた理由は、健康のためではなく、上位カーストが好み、近年下位カーストにまで広がっている菜食メニューの方が美味に違いないであろうとの推測からであった。ホテルの朝食はバイキングだったのでいろいろトライできたし、夕食を複数人で食べる時も1皿をシェアできたので、いろいろ試食できた。
 残念ながらメニューの名前は覚えてないし、味音痴の私には、味の評価や表現もできない。ベジの方が上品な辛い味付けだったという印象ぐらいしか言えない(本当か自信が無い)。ノンベジの方はチキンとマトンだが、概して大味と思った。ただ、タンドリーチキンはヨーグルトと香辛料に漬け込まれており、チキンの中では美味しいと思った。
(浄度の高い菜食)
 旅行ガイドを見ていて、プネ市で変ったレストランを見つけた(地球の歩き方「インド」)。「ナチュロパシー(Naturopathy 自然療法)国立研究所」に付属する「ダイエット・センター」だ(http://punenin.org/facility.htm)。「地球の歩き方」には半ページ程度のコラムで紹介されている。
 近代において欧州で発想された「自然療法」の概念をインドに導入したのは建国の父マハトマ・ガンジーで、自らも実践するとともに、施設を作り、政府(厚生省)もバックアップした。ガンジーとプネ市は関係が若干深く、プネ市のこの研究所は、全国3か所のうちの1つ。ガンジーの写真が飾られている。ナチュロパシーは、インド古来のヨガやアーユルベーダ(インド医学)に通ずるところもあり、薬は一切使わずに、断食、泥パック、マッサージ、食事、ヨガを通じて治療するのだそうだ。
 付属するダイエット・センターの昼食を食してみた。非常にシャビーな施設で、若干ためらったが1人で入った。セットメニューでセルフサービス。タリー(大皿、定食)と呼ばれる大皿の中に、暖かい汁(豆、野菜カレー)2皿、生サラダ1皿、米の調理品1皿、パン、ジュースが乗っている。これで50ルピー(85円)だから、今回の旅行では一番安い。残念ながらカメラを車の中に忘れてきて、写真を撮れなかった。ついでに水のペットボトルも忘れてきて、水を1口だけ恐る恐る飲んだ。生サラダは怖いので手を付けず。
 味は、全く美味しくなかった。スパイスなど入っている気配は無い。ちょうどその日の朝からお腹を壊していたので、体には優しかったろう。ガンジーも推奨する浄度の高い菜食なのだろうが、他人にはあまり薦められない。

*1:山下博司「ヒンドゥー教‐インドという謎」(講談社選書メチエ、2004年5月1刷、2012年6月6刷)

*2:これより菜食度が更に高いものとして、葉食、水食、風食、絶食があり、究極は餓死だ。ガンジーを始め聖人がしばしば絶食するのは、このような宗教的な「浄と不浄」概念に基づいている。

*3:仏教とジャイナ教が出た後にバラモン教が変質していったものがヒンドウー教と言われる。

*4:辛島昇 監修 「(読んで旅する 世界の歴史と文化) インド」 (新潮社 1992年11月) p.182-

*5:上述の辛島昇監修「インド」に、「バラモンの慣習であった「結婚の際の(花嫁側からの多額の)持参財」の慣習がさまざまなジャーティへ拡大していることも、サンスクリット化現象の一面を持つ」と書いてあった。本日(12/18)たまたま読んだウォールストリートジャーナルの報道記事「インドの女性苦しめる家庭の伝統―重圧に押しつぶされた女性警官」( http://jp.wsj.com/article/SB10001424052702303674004579263433214927814.html )は、結婚した女性警官が、夫とその家族から持参金として車を持ってこないと何度も責められて、その結果自殺したという話だ。単に古い伝統というだけでなく、その背後に序列上昇を目指すジャーティ全体の悲願があるとしたらと思うと陰鬱な気持になる。