孫への贈与論

 先日、孫への贈り物に関する考え方が、家人のそれとの間で基本的違いがあることに気づき、少からずびっくりした。それで贈与について少し勉強しようと思った。以下、1)家人との考え方の違い、2)モースの「贈与論」の概要、3)どうでもいいような若干の考察を紹介する。
1) 孫への贈与(家人との違い)
 話しの発端として少し前置きがある。私は、子供の知的成長には、子供に本を読ませる、また、まだ小さくて自分で読むには多少困難がある場合には親が読んで聞かせることがいいと思っている(清水義範の作文教室に関する著など)。それで、ここ何年か夏と冬の中元、歳暮代りに、図書カードを息子(孫の父)に贈っていた(家人は、誕生日その他の機会に別途プレゼントを買い与えている)。
 ところが、今年の夏から私はボーナスが無い給与体系になったので、わざわざ銀行からその分の現金を下して本屋で図書カードに換え、本人に渡すのも面倒だと迷っているうちに時期を逸した。会う機会も直ぐには無いようだったから、アマゾンのギフトカードを利用することとした。これは銀行にも本屋にも行かなくてパソコンから手続きができる。紙のカードと電子メールと2種類あるが、紙のカードだと送料がかかるので、電子メールを選択。息子に電子メールを送付すれば電子マネーとして届く(貰った人の利用方法はよく知らない)。メッセージも添付できるので、「孫の本を買うために限る」旨を書いた。
 家人に話すと、それはおかしいと言う。孫に本を贈るなら、本を買って本人に手渡すのが一番、特定の本を選ばず図書カードであっても本人(孫)に直接手渡すべき(又は孫の前で親に手渡す場面を見せる)べきだ。それでないと誰から貰ったか判らなくて問題だからと言う。
 私は、最終的に子供が本を読めればいいことだから、途中の形式は構わないと思っていたが、家人にしてみれば、贈り物は、孫との人間関係の維持にも価値がある訳だ。私は、孫と付き合うとやや面倒くさくて疲れるが、家人は嬉々として相手をし、また孫からの人気も高い。私はどちらかというとぶすっとしているので、孫は多分付き合いにくいだろう。参考までに、孫は男子が2人で、現時点で学齢前。
 このようなことで、「贈与」とは何であろうかと疑問を持ち、何か読んで見ようと思った次第。
2) モースの「贈与論」
 「贈与論」といえば、モース著が有名だ。この本のことは、20年以上前に読んだ構造主義の入門書*1の中で、名前だけは知っていた。構造主義レヴィ・ストロースの仮説「親族の基本構造」の着想に大きな影響を与えたものとしてモースの「贈与論」が紹介されている。ちなみに、レヴィ・ストロースのこの仮説をひとことで言うと、有名な(かつ多少物議を醸した)「親族は女性を交換するためにある」である。この仮説自体は非常に興味深く、私も感銘を受けたが(入門書だけでの話)、本稿は「贈与」を議論したいので、紹介しない。
 アマゾンでモースの「贈与論」を探すと、驚いたことに2009年に新しい訳書が出版されていた。
○ マルセル・モース「贈与論」(吉田禎吾・江川純一訳、ちくま学芸文庫、2009年9月第1刷、2011年7月30日第5刷)
 2年間で5刷もしているのは驚きだが、文庫本で買いやすい面があるからだろう。フランス語の原題は「Essais sur le don*2」で、1925年の出版、今や古典だ。
 買いやすくはあったが、あまり読みやすい本ではなかった。それよりも、内容が私の期待していたこととは多少ずれており、少しがっかりした。すなわち、私の関心は孫への贈与だが、モースの贈与論の対象は、クラン(氏族)間、首長と首長との間、家と家との間、主従の間での贈与である。言わば社会の公的構成員の公的関係としての贈与である。
 折角読んだこともあり、私の家族内贈与の話とも多少関係があるので、モースの贈与論を簡単に紹介する。
 北米大陸の北西部の部族、ポリネシアメラネシア等の部族の比較調査、更に欧州の古代(一部中世、近世も含む)社会との比較の結果、各地域共通して、公的贈与には3種類の義務があるとする。しかるべき人にとって、a)贈与をする義務、贈与の提示を受けた人にとっては、b)受け取る義務とc)返礼をする義務である。例えば、「与えることを拒み、招待*3することを怠ること(aに背馳)は、受け取ることを拒む(bに背馳)のと同じように、戦いを宣言するのにひとしい。それは結びつきと交わりを拒むことである(モース著39ページ)。」 また、c)の返礼をしない人は、贈与者への従属を承諾することになる。従属したくない人は、返礼、できればもらったもの以上の返礼に努めなければならない。これらの義務に違反すると、平和的な関係は損なわれ、甚だしくは部族間の戦争になる。
 このように贈与と返礼は、自由でなく義務で、また無私無欲なものでもない。首長への贈与には貢物の性格があるとも言えるし、純粋な贈与の典型と考えられる配偶者間の贈与にも、ある部族の例では性的奉仕への一種の報酬と見られる面があるという。
 贈与や返礼の規模は大きくなり、破産する人も生ずる。規模が大きな贈与として、例えば北米の部族で「ポトラッチ」と呼ばれる風習があるが、ポリネシア等でも同じものは見られる。主催者はいろいろな機会(婚礼、出生、葬儀、成人式、祝祭その他集会、等)に祝宴を催し、気前のよさを最大限に発揮して贈り物を配る。モースは、ポトラッチを「闘争型の全体的給付」と名付けている。闘争型とは、贈る人、返礼をする人が前の贈与を上回って浪費をすることを目指している傾向を指している。
 現代日本においても、私的な中元歳暮、婚姻、葬儀等贈与と返礼の習慣は廃れない。また、公務員への贈賄についても、如何に公務員の倫理が高くても受け取ったら何もしないという訳には行かないというのが普通の人間の感覚であろう。贈賄側の費用効果は高い。
3) 家族内の贈与
 モースの贈与論は、基本的に部族間、組織間の公的贈与を対象にしているが、家族内の贈与にも多少のインプリケーションはある。
 先ず贈与は無視無欲でなく、全て目的があるとする。孫へのプレゼントの場合、物での返礼は期待できないが、喜ぶ顔を見せてくれるのが最大の返礼であり、贈与側の目的でもある。モースは、贈与を受けた人の返礼の義務に加え、贈与された物をけなすことをタブーとする風習も紹介している。孫は喜ばなければいけない。
 次に、贈与には儀式が必要である。婚礼、出生、葬儀、成人式、祝祭、誕生日、お宮参り、入学式など儀式の機会は多く、それに併せて贈与することが重要のようだ。街を歩いていて自分が気に入ったものがあったからということだけで与える(更に直接ではなく人づてに渡す)のは、贈与ではないのだろう。最近、結婚式の引き出物や内祝い、香典返しで、カタログから選ぶ方式が多くなっている。好きなものを選べる利便性があるといっても、何か抵抗を感ずる人が多いのは、即物的すぎて儀式性が欠けていることも要因ではなかろうか。
 モースの贈与論には、公的贈与であることもあって、贈られる人は大人であって、子供自体への贈与の話は無いようである。幼年期、少年期のイニシエーション(元服等)の儀式なども「ポトラッチ」の機会になるが、贈与の相手は大人であったのだろう。しかし、現在、子供は贈与の受け手として無視できない。
 ということで、家人の主張する、孫への贈与に儀式的なことが必要ということは、社会人類学的視点からよく理解できた。しかし、面倒くさい(ないし照れくさい)との気持は拭えないから、多分私は従来通りで行くであろう。
 ちなみに、図書カード以外の孫へのプレゼントもたまにあるが、かねて私にはプレゼントの3原則を持っている。a)愛情をもって(相手の歳を考えて、難しいのは駄目)、b)財布の中身と相談しつつ、c)自分も欲しいなと思えるものだ。その結果、数百円程度の玩具(私は「駄玩具」と名づけている)になる。家人が贈るものに比べて差が歴然としていて、そのうち孫もあまり喜ばなくなった。

*1:橋爪大三郎「はじめての構造主義」(講談社現代新書、1988年)

*2:フランス語のessaiは、英語のessay(第1義は「随筆」)とニュアンスが異なり、第1義は「試験」だ。ここでは「試論」と解した方がいいと思う。

*3:宴会での饗応も贈与の1形態。