国体論

 中学の友人から、次の本の感想をブログに書いてくれないかと妙なことを頼まれた。
白井聡「国体論−菊と星条旗(集英社新書、2018/5/6第2刷、第1刷は同年4/22)
 新聞にかねて大きな広告が出ているから、私もその本のことは知っていた。新聞広告のウェブページが見つからないので、集英社のプレスリリースのURLを掲げる。 http://www.dreamnews.jp/press/0000171735/ 
 日本の対米従属の背景を論ずるもので、私は関心があったがわざわざ買う気は起きなかった。理由は、内田樹の有名なブログで対米従属論は何度か読んでいたからだ。無料で読めるのに金を払うのはどうかと躊躇した。ちなみに、内田樹の議論は、戦後日本の対米従属は、当初は日本の自立のための「手段」だったが、現在は「対米従属自体が目的」となっている。安倍首相らは、これにより戦前スキームへの回帰、ないし再軍備を目論んでいるというものだ。私は、安倍首相や右翼の議論は好きではないが、対米従属が目的という論には違和感があり、ブログで繰り返される彼の議論には若干辟易していた。例えば次のページ。
(内田樹の研究室/ 対米従属を通じて「戦争ができる国」へ。) http://blog.tatsuru.com/2015/06/22_1436.php 
 しかし、ジャーナリストたる友人の依頼にも興味を持った。ポジティブな評価を期待しているのか、ネガティブなものなのか。それには、先ず読んでみなければということで購入。結論からいうと、不遜ながら、私の感想はややネガティブだ。
1) 占領体制、従属体制の不可視化
 安倍首相を始めとする、近年の日本の米国へのへつらい振りは異常だが、その原因は、日本の戦後の国体で、天皇の上に(ないし、替りに)米国を置くようになったからだと著者は言う。終戦時のポツダム宣言受諾の際に、日本が「国体護持」に拘ったことは有名で、その場合の「国体」とは、周知のごとく天皇制だった。それが何故米国になっていったか。それには米国の戦略もあるが、それを受け容れるようになった日本国民側の事情もある。
 先ず、終戦直後の1945/9/27に、昭和天皇マッカーサーと会見した時に、天皇が全ての責任は自分にあると言い、それに対しマッカーサーが感動したとの話がある。これにより、マッカーサーは、天皇の高潔さを理解し、天皇に敬意を抱いた、つまり「日本の心」が理解されたとの神話が日本人の間で生れた(同書p.122)。これが現在に至る対米従属の原点だとされる。
 1945年からのマッカーサー体制(占領)は、日本の主権が無い、すなわち支配されている状況だった。しかし、その主権制限は、マッカーサーの「日本の心」の理解により、不可視化され、(国民意識として)否認されたことが、他の被支配国に例を見ない日本の特徴である(p.149)。自由を目指す希求は、被支配の事実を自覚する所から始まる。これに対し、日本の戦後民主主義体制は、自由への希求に対する根本的な否定の上に成り立っていた(p.130)。*1
 被支配の不可視化は、天皇を主権とする戦前の国体が米国を主体とするものに変質したことによる。著者は、1960年の安保改定反対闘争の挫折の後、日本国民は経済重視に転じ、それが成功し、ある意味で米国をしのぐようになった時点で、更に、対米従属の国体は見えなくなったという。
 戦後の米国による占領体制から日米安保体制、それに引き続いての日本の目覚しい経済発展(安保体制の意義が見えなくなった)を経ての現在の対米従属体制という風に、一貫して米国に依存してきたことは事実であろう。
2) なぜ「国体」か。
 しかし、なぜ、戦前日本の体制−戦争を引き起こしたと批判され、戦後は克服されたとされている「国体」の言葉を使うのか。それは、国の統治の精神的権威と国民との親和性において、戦前の天皇と戦後の米国に共通点があるからとされる。
(戦前の国体の3期区分)
 明治維新以降の近代天皇制の形成期においては、天皇と国民との間は、日本国を主宰する「天皇」と支配される「国民」という意識だった。しかし、後期(後述の戦前の第3期)の北一輝などのファシズム思想においては、受動的な「天皇の国民」を、理想国家実現のために能動的に活動する国民へと転化する試みが行われ、その転化が成し遂げられる時、能動的な国民によって押し戴かれる天皇は「国民の天皇」となるとされた(同書p.67)。2.26事件を起した陸軍青年将校たちも、天皇は判ってくれる筈だと信じていたという(しかし、天皇は拒絶した)。
 著者によれば、戦前の国体(=天皇制)は、①形成(明治期)、②発展(大正期)、③衰退(崩壊)(昭和期)の3期に分けられ、それぞれ国民との関係は、①「天皇の国民」、②「天皇なき国民」、③「国民の天皇と名付けられる。詳細は省略するが、第2期の②「天皇なき国民」が大正デモクラシーの時代だ。天皇の存在が当然のものとなって、露わには見えなくなった。第3期の「国民の天皇」の理念は、上述のように失敗し、敗戦による国体の崩壊につながった。
(戦後の国体の3期区分)
 戦後はどうか。戦前の3期区分に準じた3期に分けられる。第1期の①「(対米従属体制の)形成期」は、戦後の占領期、安保体制を通じて日本経済が高度成長する時期で、1971年の2つのニクソンショック(訪中、ドルショック)を境として、次の②「(対米従属の)安定期」に移行する。第3期は、ソ連崩壊後の1991年から現在に至る③「(対米従属の)自己目的化の時期」である。

  • ①「形成期」(1945-71)は、占領、安保体制の中で、米国への従属体制が形成されたが、国民の中で不可視化されていた。米国の庇護の下、朝鮮戦争特需などで、高度経済成長が続いた。著者は、戦前の各期の呼び方に倣い、第1期を①「アメリカの日本」と名付ける。
  • ②「安定期」(1971-91)は、日本の経済地位が高まり、欧米で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とももてはやされた時期で、ヘゲモニー国家の地位が米国から日本に移るかも知れないとの見方もあった。しかし、米国のヘゲモニーは維持され、世界はアメリカ化が当然の前提となった。著者は「アメリカなき日本」と呼ぶ。冷戦の中で、日本は米国側に付くことが利益で、対米従属は合理的な面があった。
  • ③「(対米従属の)自己目的化の時期」(1991-現在)は、1991年のソ連の崩壊以降、冷戦が終了したがそれにも拘らず、日本の対米従属は合理的な説明の無いまま継続している。意義を失ったと見られる日米安保体制について、その積極的維持を図り、かつその他の点についても米国におもねているような態度は何故なのかというのが、本書のポイントである。この時期は③「日本のアメリカ化」と名付けられる。

 ソ連、中国等の侵略から日本を守るという元来の日米安保体制の前提は今や崩れ、今では、「米軍の全地球的(超地域的)な展開を支える体制」というのが米国の認識で(p.308)、日本政府側も「世界の安定維持に関する米国の活動を、日本が支援するための不可欠の枠組」(p.309)と規定された。なぜ日本はそれほど米国に従属し、更におもねるような態度を取るのか。それは、対米従属が国体となっているからと著者は説明する。
 現在の日本の対米従属論(当人たちは対米従属は言わないが)は、愛国=親米=嫌中=嫌韓=戦前回帰が一体となっている。
3) 感想
(現在の対米従属は「国体」か)
 現在の首相や自民党、論壇の多くが「対米従属」であるのは、私もかねてそのように思ってきたが、「国体」と呼ぶには違和感がある。「国体」というからには、「主権又は統治権の所在により区別した国家体制」(広辞苑第7版)だが、米国が日本の主権であるというのは無理だ。もっとも著者もそれは承知の上で、比喩的に用いているのだろう。
 著者は、対米従属論者(ほぼ保守派)は、反中、反韓を主張し、改憲再軍備も共通項だという。米国をバックにした利権を持つ大企業が、政官界に圧力をかけて対米従属路線を導いているという。
 同書では、対米従属を示すいろいろなエピソードが紹介されているが、私としては、個別に見れば異常だが、国体とまで言える戦略的、総合的なものとは思えない。例えば、安倍首相のトランプ大統領へのへつらい振りは異常だが、国家的戦略に基づいているものではなく、首相が交代すれば変るものだろうと思う。
 また、例えば、TPPに関する議論(米国企業による新たな収奪攻勢等、p.291)や中央銀行総裁が祭司的役割を果しているとの議論(p.323)には付いていけない。TPPなどは日本経済に有効な面もあると思う。
(私自身は米国が好き)
 私自身は、40代初めに3年間の米国カリフォルニア州での駐在経験があり、それを踏まえて実は米国が好きだ。ビールやゴルフが安く、規制が少なかった。自動車をディーラーで買ったとき(新車)、その場で運転して帰宅できたことにびっくりした。日本の感覚でいえばいろんな手続きが思い浮かぶ。例えば車のナンバープレートは、現在申請中と書かれたディーラーの紙をフロントガラスに貼り付ければよい。後日自宅に郵送されてきたので、ドライバーで取り付けた。
 その他、イノベーション、種々のスタートアップ企業の出現等には感嘆した。米国の活力の源は、多様性とスタートアップの容易性にあると思った。帰国後、米国の嫌な面も見聞きするが、その他にいろんな意見を持つ米国人がいると思っている。
(対米従属論は陰謀論か)
 私は甘いのかも知れないが、対米従属の現状が異常であるにしても、今後勢いを増すとは思えない。同書では、対米従属論が「陰謀論」と批判されることについて反論している。
 対米従属はある意味で実在しない。何故ならそれは、諸々の現実に対する抽象の先にしか見出され得ないものであるからだ。日常的な視線から見れば、現代日本の抱える諸々の問題はすべてバラバラの事象であり、それぞれに個別的な対処・改善が求められるにすぎない。この視線にとっては対米従属の問題を声高に語る者は「異常な陰謀論者」に映る一方、対米従属の問題を諸々の問題を貫く矛盾の核心と見る者は、日常的な視線の次元にとどまる者たちを「寝ぼけた哀れな連中」と見なすこととなる。(同書p.253)
 私は、上述した通り、バラバラに見ている「寝ぼけた哀れな連中」の1人だ。ただ、日本の今後について楽観している訳ではない。ここ1年間の森友、加計問題その他を巡る国会やマスコミの動きを見ていて、このような明らかな嘘に基づく非論理的な論議が通用する社会に未来はあるのかと思う。卑屈な対米従属が無くなっても、その後に来るのは、理念なき自立 (それによる不安定化) か、新たな他国への従属かと思う。何れにしろ日本の将来は明るくない。
(希望を生み出すか)
 本のカバーに内田樹が紹介文を書いている。
菊と星条旗の嵌入という絶望から、希望を生み出す知性に感嘆。爽快な論考!
 「希望を生み出す」とあるが、私はどこにもそのような記述は見つけられなかったし、希望は感じられなかった。

*1:対米従属論とは別に、この戦後民主主義体制の基盤(自由への希求が無かったこと)を知り、私は改めて感心した。