裏切りのサーカス

 4月20日(金)の日経新聞夕刊の「シネマ万華鏡」欄(映画紹介欄)で、「裏切りのサーカス」が紹介されていた*1。評価は星4つだ(最高は星5つだが滅多に出ない)。評価の高さもさることながら、原作はジョン・ル・カレの「ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」だというのに驚いた。同書の出版は1974年(邦訳は1986年)で40年近く経っての映画化だ。リバイバルかリメークかと思ったが新作のようだ。それから私は、原作を1992-3年ごろ読んだがよく判らなかった記憶がある。
 ということで、今回は原作を改めて読み直してから、映画を見に行くことにした。以下は、プロットが複雑なスパイ小説に対する私の挑戦と挫折の話だ。
1) 書誌的情報
○ 「裏切りのサーカス」 2011年(英仏)、製作:ワーキング・タイトル・フィルムズ(英国)、出資:スタジオカナル(フランス)、監督:トーマス・アルフレッドソン、出演:ゲイリー・オールドマンコリン・ファース等、原題:Tinker Tailor Soldier Spy、日本での公開は2012年4月21日から。 http://uragiri.gaga.ne.jp/
○ ジョン・ル・カレティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ」(菊池光訳、早川文庫、1986年発行、1991年7刷) (原書 John le Carre “Tinker, Tailor, Soldier, Spy” 1974)

 ジョン・ル・カレは1931年生れ、英国のスパイ小説家として有名で、特に「ティンカー・・・」を始めとする「スクールボーイ閣下」(1977年)、「スマイリーと仲間たち」(1979年)の3作は、英国諜報部のジョージ・スマイリーを主人公としていて、スマイリー3部作と言われている。
 私の本棚には、「ティンカー・・・」の他、「スマイリーと仲間たち」、「寒い国から帰ってきたスパイ」の計3冊がある。順に文庫版で500ページ強、500ページ強、300ページ強で相当長い。スマイリー3部作のうち「スクールボーイ閣下」が無いのは、多分、上下2巻、それぞれ400ページ強という長さに恐れをなしたからだろうと思う。
 これらは何れも評価が高く、ハヤカワ文庫の「冒険・スパイ小説ハンドブック」(早川書房編集部編、1992年発行)では、スパイ小説部門のベスト30のランキングで、「寒い国から・・・」1位、「ティンカー・・・」8位、「スクールボーイ閣下」13位、「スマイリーと・・・」17位と堂々としたものだ。総合ベスト100(スパイ小説の他に3ジャンルあり)の中でも、それぞれ、3位、36位、52位、65位だ。同書の「好きな主人公」ランキングでも、ジョージ・スマイリーは4位だ。
2) 「ティンカー・・・」の再読
 自分の予定から見て火曜日(24日)に映画を見に行くことにして、本棚から20年近く前に読んだ本を取り出して、土曜日から読み出した。読み始めて驚いた。中身がさっぱり思い出せない。タイトルの「ティンカー」等の意味も思い出せない。その意味は本の400ページ辺りでやっと明らかにされたが、タイトルの意味さえ思い出せなかった自分にショックを受けた。
 ということで、腰を落ち着けて読むことにした。すなわち、冒頭の登場人物のリストを絶えず参照し、また不明なところはできるだけ元の所に読み返すなどだ。結果、土、日、月と3日間をかけた。後述のことに関係するので、少しだけ小説の中身を言うと、英国諜報部(ロンドンのケンブリッジ・サーカスにあるので、通称「サーカス」。映画の邦題の由来)の中にソ連の2重スパイ(モグラと呼ばれる)がいる疑いが出てきた。そのため、特命を受けた元諜報部員スマイリーがそのモグラを暴いていくものだ。
 昔このようなスパイ小説などを読む際には、よく理解できないものはストーリーの概略を把握する程度で満足し、精読するより多くを読みたいとしていた。今回はちゃんと読んだ積りだが、やはりよく判らない所が多い。ショックなのは、2重スパイを焙り出すワナを何時どうやって仕掛けたのか判らない。読み返したが判らないので、恥かしながらWikipedia(「ティンカー・・・」の項)を見てみたら書いてあった。それを参考にして再度読み返したら、そのワナを明示する記述が1行ほどさらりと書かれていてやっと納得できた。
 これほど理解できないのは、a)私の理解力が劣る、ないし加齢で落ちた、b)この小説が難解、c)翻訳が悪い、の何れかだろう。書評では絶賛する人が多いので、やはりa)であろう。ただ、今年3月にハヤカワ文庫から新訳版が出て、翻訳者が替っている(村上博基氏)。c)の可能性をチェックする意味で買おうかとも思ったが、高いので思い止まった。
3) 映画
 火曜日の昼に見に行った。東京で上映しているのは2館、神奈川県では1館と少ない。観客は割に多いが、60-70代と覚しき高年齢者が目立つ。昔小説を読んだ人たちか、平日の昼だからか。
 ちなみに、Wikipediaによれば、ル・カレの小説の映画化はこれで7本目だが、他の6本は、小説出版後1年から数年で映画化されている。このように37年も経ってからの映画化はどういうことだろう。また、他のスマイリー3部作やスマイリーが主人公のものは未だ映画化されていないようだ。これから相次いで映画化されていくのだろうか。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%AC
 映画は、小説を読んでから見たので面白かった。しかし、知らない人は理解できるだろうかといぶかしく思う。映画館では小さなチラシをくれた。「本作に限り、ストーリー、人物相関図等をある程度把握してからご覧になることを勧めます」とある。ということで、そのチラシは何回も見ることを勧める「リピーター割引券」を兼ねている。何回も見てくれということだ。
4) 寒い国から帰ってきたスパイ
 「ティンカー・・・」は本当に難解だったので、他のル・カレも同じかと思い、1冊再読してみることにした。手許にあるのは、1)で述べたように、「寒い国から・・・」(300ページ)と「スマイリーと仲間たち」(500ページ)なので、短い方に挑戦した。前述のように、スパイ小説ランキング第1位という評価もある。
寒い国から帰ってきたスパイ」(1963年、邦訳:宇野利泰訳、ハヤカワ文庫1978年発行、1993年24刷)
 これも舞台は、「ティンカー・・・」と同じ英国諜報部で、主人公は別の諜報部員だが、裏方のキーパーソンとしてスマイリーも登場する。
 読み出しても結末を思い出せないのは前の本と同じだが、あまりつっかえることなく、ストーリーはまあまあ理解できたし、面白かった。ストーリーが比較的単純だからか*2、短いからか、翻訳がいいからか。
 翻訳については、訳語で両者が異なるのに2点気が付いた。「ティンカー・・・」で「綴り」という言葉が頻出する。これはどうしたって「file」のことだろう。一方、「寒い国から・・・」では「ファイル」と訳していて、これの方が今では自然だ。こちらの方が翻訳書の時期は早いが、どういうことだろう。
 また、スマイリーや諜報部員の上司で名前を伏せられた人が、「ティンカー・・・」では「コントロール」として職名の英語そのままで登場する。「寒い国から・・・」では、同じ人が「管理官」として日本語で訳されて登場する。好みの問題だが、「管理官」の方が自然ではなかろうか。なお、映画「裏切り・・・」の字幕では「コントロール」だ。翻訳書を尊重したものか。
 以上からの結論なのだが、本は読んでも忘れるものだ。それから私はジョージ・スマイリー向きではないようだ。今後あまりこういうのを読んで時間を無駄にすることが無いよう注意しようと思った。

*1:http://www.nikkei.com/paper/article/g=96959996889DE6E2E7E5E4EBE5E2E3EBE2E6E0E2E3E09097E282E2E2;b=20120420

*2:プロットが単純な訳ではないが、ストーリー展開が割に直線的だ。このせいか、普通のスパイ小説なら付いている登場人物リストがない。