「科学哲学講義」と原発論議

 ツイッターフェイスブックなどの「ソーシャルメディア」で自分の書き込みをアピールするための消費、「ネタ消費」が広がっているとのことだ。習い事も1回で終わる体験型(自分の作品を写真に撮り、ネットにアップすれば終り)に人が集まり、ネットでの話題を目指して、面白い商品を買ったり、珍しい場所に出かけたりする人も増えているらしい。(「書き込みのネタ探せ」(5月30日付け日経新聞http://www.nikkei.com/article/DGKDZO41988140Q2A530C1TJG000/ 記事全文は日経ネットの会員でないと読めないようだ)
科学哲学講義 (ちくま新書)
 私が今週買った次の本も、このネタ消費の類ではないかと自嘲している。書店の店員が新刊本を各書棚に配置するカートの上にあった本で、新しいだけが取り柄かと思って買ったが(ネタ消費にも旬の期間がある)、まあまあ面白かった。
〇 森田邦久「科学哲学講義」(ちくま新書、2012年6月10日第1刷発行)
 かつて私は次の書を読み、疑似科学の氾濫に著者と同様、義憤を感じていた。
池内了疑似科学入門」(岩波新書、2008年4月発行)
 しかし、今回の森田書では、科学的知識の正しさは証明できないとの結論だ。これでは、例えば放射能の人体への影響についてのしきい値論者としきい値無し論者との論争は永久に決着がつかないことになる(後述)。暗澹たる気持ちとなった。
 以下、私が理解した範囲での森田書の概要と、原発に関連する私の感想を述べる。
1) 科学的知識の正当化の困難
 科学的知識の基盤である現象論的な法則(例えば、毎朝日が昇る)は、過去の事例から帰納的推論によって導き出される。この帰納的推論は単に肯定的事例を並べるだけでなく、否定的な実験を行っても生き残るなどの条件を満たしてから法則として認められるのだが、それでもその諸条件は「説得力」を増すだけであって、その現象論的法則が「正当化」されるものではない。論理的にはそれでも間違っている可能性があるという。
 かねて帰納法にはいかがわしさを感じていた(数学的帰納法を除く)へ理屈論者の私には頷ける話だが、この後、その帰納的推論だけでなく、科学的知識の正当化ができないという議論が展開されていく。
 詳細は省略するが、第2に、「因果」という概念が客観的には実在しないのではないか(すなわち原因の証明はできない)、第3に、科学理論が仮定する観察不可能な対象(例えば、原子)が存在しないのではないか、と悲観的な見方が展開される。
2) 科学と非科学との線引きの困難
 前項のように科学的知識の正当化は証明できないが、それを前提にしても世の中は非科学的知識より科学的知識を重んじているようである。それで、著者は、科学が重んじられる所以を明らかにするために考えられた科学と非科学との線引きの基準をいくつか紹介する。

  • 検証可能性基準」(正しいことを証明する手段がある命題は科学的)、
  • 確証可能性基準」(『確からしさ』をアップできるような手段がある命題は科学的)、
  • 反証可能性基準」(間違っていることを証明する手段がある命題は科学的)

 しかし、紹介された基準は何れも不十分で、科学と非科学を分けることはできない。すなわち、科学の正しさを証明することはできない。
 それにしても科学的知識の方が非科学よりも説得力があるのではないかとの期待がある。例えば、自然科学では、ある1つの理論が研究者集団に広く受け容れられるということが起きるが、人文系学問や宗教、政治思想(ここでは「非科学」と同義)では殆ど見られない。この科学の特徴に著者は期待を掛け、何とか科学的体系の優位性を説明できないかとする。しかし、その希望に対しては、次のように、科学的知識も社会構造等に規定されるものだとの悲観的見方が紹介される。

  • パラダイム」 パラダイムが変ると科学的命題も変る。異なるパラダイム間では命題の正当性を評価する共通尺度が無い。*1
  • 社会構成主義」(科学的知識が現在のような形であるのは不可避ではなく、別な形もあり得た。現在の形であるのは社会的な出来事や力によるものだ)に至っては、科学だけでその正当性は説明できないという自虐的な評価になる。

 最後に著者は、(悪あがきにも見えるが)科学と非科学とを分ける基準に2種類あると提案する。第1は、現象の説明の仕方で科学的と非科学的が区分できるという基準。第2は、その体系の中核となっている現象の存在がそもそも十分な証拠によって支持されているかという基準だ。例えば、血液型性格診断説の中心的な主張は、血液型と性格には相関があるということだが、これについては十分な証拠が無い、従って非科学的だと判断される。基準を提案しているのに著者は悲観的だ。例えば第1基準の科学的説明には、統合説と因果説があるとするが、何れも限界があるとする。
 何れにしろ、著者は、科学的知識が正しいと証明することはできないし、正しいとの保証はないという。ただ、科学的知識は、長い時間をかけて発展してきた科学的方法論に基づいて確認されてきた現象論的法則と、それをただ並べただけでなく、基本的法則と併せ、論理的関係による諸法則の網目の中に位置付けられているものであるという。このように信頼性を高められているのが、科学であって、他の知識体系との違いであるというが、その主張はやや弱々しい。
3) 感想
 原発事故に関連して、2つ感想を述べる。
a) 原子力規制委員会
 原子力安全・保安院の後の体制として、当初の政府案にあった環境庁の外局案が、野党の主張により3条委員会として設置される方向で与野党間で調整されていると伝えられている(例えば6/8付け東京新聞 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2012060802000122.html)。 原子力規制委員会は、原子力に関する専門家5人による合議体で、政治に干渉されず、科学的知見に基づいて原子力安全対策が進められる。すなわち、専門的・技術的な指示は、原子力規制委員会が独立して行い、首相の権限は縮小され、周辺自治体や関連機関への指示に留められる。
 しかし、任された専門家、科学者の方も苦しいのではないかと心配する。従来は、科学的に100%正しいとは証明できないとの関係者の暗黙の前提の上で、政治的、財政的に折り合った結果の、ある程度妥当なレベルの原発安全対策を進めてきた面があろう。これからは予算的にも従来よりは独立するので、専門家、科学者の責任は格段に大きくなる。100%の安全を保証しろと言われても科学者としては困るだろう。
 それから仮に事故が起きた場合、実際に動くのは地方自治体、警察、消防、自衛隊等である。委員会と首相という複合的な指揮命令系統で大丈夫だろうか。住民の避難指示には、原子炉の損傷条件等の刻々の評価が必要だが、誰も炉の中の状況は見えない。避難対象を20km内に留めるか、首都圏まで拡げるか、どのように避難させるか、どのようなパニックが起きる可能性があるか、その影響まで考えて、見えない原子炉内の状況をどのように首相に伝えればいいのか、私には想像もつかない。
b) 放射線の人体への影響
 放射線の人体への影響については、しきい値論としきい値無し論とが現在対立している(弊ブログ id:oginos:20111229 「放射線量計測」の「5)人体への影響」 参照)。科学的知識の正しさを証明することができない以上、この神学論争は、当事者間ではもちろん、第3者を含む公平と思われる機関を作っても、解決できるか悲観的にならざるを得ない。
 この神学論争に立ち入る積りはないのだが、上述の科学と非科学を分ける2基準のうちの第2基準(中核的な主張に十分な証拠があるか)を読んで私が感じたことがある。しきい値無し派の中核的命題は、100ミリシーベルト/年未満の低被曝であっても被曝量に比例した人体への影響があるとするものだ。しきい値派は、過去の放射線被曝の豊富な事例をもって人体への影響は無いとするが、しきい値無し派のあるとする主張は、同派も一部認めているように十分な証拠が揃っていないように見える。そういう意味で現時点では、しきい値無し派は非科学的と言えようが、問題は、非科学的であっても正しくないとは言えないことだ。また今後科学的となり得るような証拠が出てくるかも知れない。
 先の原子力規制委員会の運営問題も含め、原子力関係では、森田著で紹介された、科学の「社会構成主義」が適用されるのではと思われる。すなわち、科学的知識の正しさは、社会的な出来事や力によるものとの理論だ。原発の停止による電力供給の危機が常態化する場合、又は逆に放射線影響による子供の甲状腺がんの多発等の将来の社会的事象によって、新たな科学的正義が生まれるのであろう。

*1:その他「研究プログラム説」、「研究伝統説」も紹介されているが省略。