インド雑記(8) 写真集(デリー編)

 写真を多く撮ったので、幾つかを抽出、編集して、簡単に紹介していく。建造物の名前は忘れやすいが、2つの方法で確認した。第1はグーグル・マップのストリートビュー。最新バージョンは有名建造物の名称が出てくる(メインな道路沿いだけか)。第2は、旅行の途中で気が付いたが、妻から借りて行ったポケット・デジカメに5秒間の録音機能がある。すなわち、写真を撮るとその後5秒間自動的に録音機能が働くという設定ができる。それで、写真を撮ったあと、ガイドさんにその説明を吹き込んでくれと頼んだ(もちろん自分で吹き込むこともできるし、それが普通か)。しかし、ガイドの方でびっくりして5秒が過ぎたりするし、後で聞いてもよく判らない英語だったりしてうまくいかない場合もあった。
 ということで、名称は大体合っていると思うが全て自信がある訳ではない。また、掲載写真は時間順ではない。それから、動画ボタンをクリックしても再生できないときは、ダウンロードすればいいと思う。
 先ずデリー編だが、この後、アグラ編、ムンバイ編、プネ編と続ける予定。デリー編は、歴史の長さを反映して少し長いがご容赦を。次回からはそんなことはないと思う。
 先ず、到着前の飛行機の窓から撮った写真2枚から始まる。
1) 富士山とエベレスト

 成田離陸直後だが、同行のU氏が教えてくれた。こんなにきれいな富士山が見られるのは、私にはあまり記憶が無い。

 インド領空に入ると、CA(スチュワデス)が、エベレストが見えると教えてくれた。これこそ私にとって初体験だ。撮影してズームアップしたのを載せたが、判るだろうか。
(機内の余談)
 成田からデリーへのJALの直行便だったが、インド人のCAが乗っていないのは意外だった。乗っていたのは日本人の他はタイ人で、ヒンディー語などは通じない。インド人の乗客は寂しくはないだろうか。
 また、昔は当り前だと思っていた、機長の機内アナウンスが殆んど無かったのは不満だ。私の聞きたいのは、到着地の気温と天候だ。これがあらかじめ判ると、着陸後の服装の調整が余裕を持ってできる。気温の案内があったのは、シートベルトの着用サインが出た後、着陸直前のCAからの事務的アナウンスの時だけだ(機外の成層圏等の気温はディスプレイ上で絶えず流れている)。エコノミー席の乗客は、到着後出口に先を争うから、それから着替えはできない。成田への帰りの時もそうだった。
2) オールドデリーのチャンドニー・チョウク
 デリーは、ムガル帝国(1526-1857)の首都として機能していた(全ての期間ではない)地域(オールドデリー)と1911年の英領インド帝国の首都移転後に整備されてきた地域(ニューデリー。1947年のインド独立後も首都)がある。
 オールドデリーの繁華街として有名なのはチャンドニー・チョウク。ガイドが自動車を降りてリキシャーで見物することを提案したのでもちろん賛成。リキシャーとは明治日本の人力車が伝わったものだが、ここでは人が引くのではなく、サイクルリキシャー(自転車の後部にほろ付きの2人用座席を設けたもので、人が漕ぐ)とオートリキシャー(自転車の替りにオートバイで、4人乗りなどもある)がある。サイクルリキシャーの写真は次。

 サイクルリキシャーにガイドと2人で乗って、チャンドニーチョウク通りやその付近を見学往復した。その通りの喧騒振りを動画で示す。

http://d.hatena.ne.jp/oginos/files/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%AF2.MOV?d=.mov
 自動車とリキシャーが車道を一緒に走っていて若干怖い。4-50分間乗ってから、ガイドが運転手に100ルピー払ったらと言う。運転手が少し恨めしそうな顔をしたが、それで済ませた。あとで考えてみると1ルピーが1.7円だから170円だ。あの重労働で余りにも少ない。倍ぐらいは払わなければいけなかったかと激しく悔んだ。しかし、「地球の歩き方」(2013-14年版)を見ると、「正規料金は、初乗り(2km)19ルピー、以降1kmごとに6.5ルピー加算。正規料金で走るリキシャーはなかなか見つからないが、1km当り10ルピー、ミニマム30ルピーを目安に」とある。私の場合、3-4kmぐらいだったからよかったのかも知れない。それにしても、インドのコスト競争力が強い訳だ。

 チャンドニー・チョウク通りの東の端は、ラールキラー(赤い城)だ。ムガル帝国時代に作られた。この写真は、通りから東方ラールキラーを望んだもの。1857年のセポイの大反乱時に、反乱軍が当時既に実体的な力を持っていなかったが、ムガル帝国の皇帝を象徴として担ぎ出した。英国がこのラールキラーを攻めて、ムガル帝国を滅ぼし、翌年英領インド帝国が設立した(1947年まで)。
3) チャンドニー・チョウク通りの寺院
 予備知識として、インドの宗教事情について、簡単に説明する。

(インドの宗教について)
 私がかつて学校で習ったのは、インドは大戦後の独立時に、ヒンドウー教のインド、イスラム教のパキスタン(後に東のバングラデシュが分離独立)、仏教のセイロン(後にスリランカに名称変更)に分裂したことだ。それで、インドはヒンドウー教だけと思っていたが、次に示すようにイスラム教も含め多くの宗教が混在している。
 2011年の国勢調査では、ヒンドウー教80.5%、イスラム教13.4%、キリスト教2.3%、シーク教1.9%、仏教0.8%、ジャイナ教0.4%、その他0.6%。「その他」には、パーシー教(ゾロアスター教拝火教)、バハーイー教が含まれるのだろう。
 ちなみに、パキスタンは、正式名称がパキスタンイスラム共和国であるように、イスラム教を国教としているが、インドでは憲法上国教に関する規定はないとのことだ。
 ヒンドウー教は、以前にも述べたように、紀元前1500年頃のアーリア人のインド侵入時に持ち込まれた「バラモン教」を前身とすると言われる。シヴァ神ヴィシュヌ神を中心として多くの神々が信仰されている多神教だ。
 もう1つ私が意外に思ったのは、デリーや北インドが13世紀から19世紀までイスラム王朝に支配されていたことだ。すなわち、デリー・サルタナットと呼ばれる5王朝(1206-1526)とムガル帝国(1526-1858)。それなのに、今ではデリーも含めヒンドウー教徒が主体なことが意外に思われる。その背景は、これらのイスラム諸王朝が、住民の在来宗教に融和的であったことにある。ただ例外もあり、ムガル帝国第6代アウラングゼーブ帝は、イスラム教に改宗するように圧迫したとのことだ*1
 この政教分離の方針は、Secularismと言われ、現在のインド憲法でも基本的に引き継がれている理念だという。12月25日のクリスマスが国民の休日なので、キリスト教徒が2.3%しかいないのに何故かとガイドに聞いたら、このSecularismを理由に挙げていた。他の宗教の祭日をお互いに祝うのだそうだ。
 これに対し、現代インドで問題になっているのがCommunalismといわれる動きで、「宗教、民族、カースト等で区別された各集団間の排他的対立関係(広辞苑による)」が多く見られる。すなわち、ムスリム(イスラム教徒)のテロ、それに対するヒンドウー過激派のテロなどが多く発生している。インドのかねての伝統のSecularismの寛容さはどうなったのだろう。

 チャンドニー・チョウク通りないしその近傍にある各宗教の寺院の前を通った。
○ ジャマー・マスジット

 中近東を除いて南・東アジア最大のイスラム教のモスクで、チャンドニー・チョウク通りから少し南に外れた所に建つ。中も覗きたかったが、ちょうど毎週金曜日のイスラム教の集団礼拝の時間だったので入れなかった。ちなみに、以下の他の寺院も、ガイドが面倒だったのか、前の道を通った時に教えてくれただけで、中には入らなかった。
○ ガウル・シャンカー寺院とディンガンバル・ジャイナ寺院

 チャンドニー・チョウク通りに並んで建つ。手前の白いのは、ヒンドウー教のガウル・シャンカー寺院。ヒンドウー教の寺院はムンバイで中に入った。
 奥の赤いのは、ジャイナ教のディンガンバル・ジャイナ寺院。ジャイナ教は、インド雑記(3)でも書いたが、紀元前5世紀(4世紀との説もある)にバラモン教へのアンチテーゼとして、仏教と並んでマハーヴィーラが創始した宗教だ。仏教とジャイナ教が出た後にバラモン教が変質していったものがヒンドウー教と言われる。信者数比率は0.4%。
○ グルダワーラー

 シーク教(信者比率1.9%)の寺院。シーク教は、15世紀にインド北西部のパンジャーブ地方で創設されたもので、ヒンドウー教とイスラム教を批判的に統合した宗教らしい。17世紀にムガル帝国第6代アウラングゼーブ帝の弾圧により軍事色を強めたと言われる*2
 今でもターバン着用とあごひげをそらないことが特徴。ターバンがインド人の特徴と思われるが、実はシーク教徒だけとのこと。ガイドの説明によれば、シーク教徒には、かつて4つの特徴というのがあり、ターバンとあごひげに加え、小刀と鉄製の腕輪を身に着けていた。これらは戦士の象徴だったという。
4) バハーイー寺院

 これはオールドデリー地区ではなく離れているが、寺院ということでここに並べた。ガイドによれば、バハーイー教は約150年前にイランで創始されたもので、宗教というにはやや問題がある。神も聖書もなく、ただ世界平和を祈るとのこと。デリーのこの寺院は1989年に建設され、ロータス(ハス)寺院との別名もあるユニークな形をしている(豪州シドニーの有名なオペラハウスに似ている)。1500人収容できる内部は何も無く、ひたすら瞑想するための空間とのことだ。信者の比率は、2011年国勢調査の「その他宗教」0.6%の内数であろう。
5) ニューデリー
 1911年に英領インドの首都がカルカッタからデリーに移った後に、オールドデリーの南側に、インド総督官邸、インド門、ラージパト通り(西の総督官邸と東のインド門を繋ぐ大通り)等が建設された。
○ インド門

1911年以降着工、1931年に完成。第1次大戦で英国に協力して戦死したインド兵の慰霊碑。外壁面には戦士の名前が刻まれている。ここから広いラージパト通りが真西の大統領官邸に向っている。
○ 大統領官邸

 1947年の独立後の大統領官邸は、旧インド総督官邸を引き継いだ。その前の大通りの両側の政府官庁街も英領時代の建物を引き継いだもの。国会議事堂も英領時代のものを引き継いだが、この大通りからは外れて北側にある。英領時代の国会(インド人の代議機関)は、表通りの1等地にあった訳ではないと納得した。
 次の短い動画は、大統領官邸から真東のインド門を望むもの。両側が主要な政府官庁。

http://d.hatena.ne.jp/oginos/files/%E5%A4%A7%E7%B5%B1%E9%A0%98%E5%AE%98%E9%82%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E9%96%80%E6%96%B9%E5%90%91.MOV?d=.mov
(インドの首都は?)
 インドの首都は、日本の外務省の資料ではニューデリーで、インド政府の公的資料でもそうだとされている。しかし、ニューデリーは「デリー首都圏」(人口約1100万人)の中の1地区(人口約30万人)で、単独の市制を布いている訳ではないという。それで最近の資料では、インドの首都を「デリー」としているものも出ているそうだ。私もそれが自然だと思う。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%AA%E3%83%BC
6) フマーユーン廟
 ムガル帝国第2代フマーユーン帝(在位1530-56)の廟(墓所)。建物の形は、次回に述べる、有名なタージ・マハルと似ている。それもその筈で、タージ・マハルは、第5代シャー・ジャハーン帝(1628-58)が、フマーユーン廟をモデルにして建設したものだ。ガイドが、タージ・マハル(TM)とフマーユーン廟(HT)との4つの違いを説明してくれた。
a) TMは白い大理石、HTは赤色の砂岩(中央ドームは白い大理石)で、石が違う。
b) TMの外壁面は透かし彫りや象眼など装飾が華やかだが、HTの外壁面にそのようなものは無く、すっきりしている。
c) TMは、亡き王妃(ムムターズ・マハル)を偲んで夫の帝王が作ったが、HTは、亡き帝王を偲んでその王妃が作った。
d) TMには周囲の4つの角にそれぞれ尖塔がある。HTにはそのような尖塔は無いが屋上のドームの周りにシャトリといって4つの傘のようなものがある。
 ドームの上までの高さで比較すると、HTの38mに比してTMは58mというように、TMの方が規模が大きいが、デリーでのHTの大きさも驚くべきものだ。次の短い動画は廟の全景、写真は廟の内部(横向きになったが本当は縦長)。
http://d.hatena.ne.jp/oginos/files/%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%BB%9F.MOV?d=.mov

7) クトブ・ミナール
 今まで紹介した地域の位置関係は、北からオールドデリーニューデリー、フマーユーン廟、バハーイー寺院だが(多少東西にずれるものもある)、この遺跡はデリー内で更に南に位置する。また、デリーでは最も古い部類に属する遺跡だ。


 12世紀までは、デリーを含むインドの各地域は、ヒンドウー教を称する王朝がそれぞれ支配していた。1192年にアフガンのムスリム(イスラム教徒)勢力が、デリーを征服した。この遺跡クトブ・ミナールは、1200年頃、ムスリムの浸入勢力によって建てられたミナレット(尖塔、イスラム教の寺院モスクに併設されるもの)だ。恐らくムスリムの最初のデリー制覇の記念として建てられたもので、高さが72mあり、ミナレットとしては世界最高とある。
 次回は、タージ・マハルのあるアグラ市。

*1:アウラングゼーブ帝は評判が悪く、今回のガイド5人のうち2人がcruelな王だったと評していた。

*2:ガイドの話によれば、アウラングゼーブ帝によりイスラム教への改宗を迫られた時、ある人達はカシミールに逃れ、ある人達はシーク教徒として戦ったという。